戦国末期に徳川家の旗本に生まれた正三
大坂の陣で戦場を駆けるも軍功を捨てた正三
42歳で出家し、故郷と天草などで布教した正三
仁王禅を唱えて、「死に習う」ことの大切さを説いた正三とは、どんな人物だったのでしょうか。
©悟東あすか
戦で軍功をあげるも
鈴木正三は、戦国末期の天正7年(1579)に、三河(愛知県)足助庄則定に生まれています。
父の鈴木重次は徳川家康の旗本で、正三も武士として生きることが運命づけられていました。
幼いときから感性が豊かであったようで、4歳のときに、同年の幼児が亡くなったのをみて、
「死とはなにか。死後はどこに行くのか」
と疑問をいだいたといいます。
10歳のとき、高橋七十騎といわれる武士団に入って、戦闘術を学んでいましたが、徳川家康が江戸に移ると、それに従って鈴木家は上総(千葉県)の塩子に移住しています。
21歳のときの関ヶ原の合戦では、徳川秀忠を補佐する本多正信の配下として従軍します
初陣でしたが、中山道を行軍した秀忠軍が信州(長野県)上田城の真田昌幸を攻めたために、関ヶ原の決戦には間に合いませんでした。しかし戦後、父の重次は足助周辺に五百石をいただいています。
それから豊臣家が滅亡する大坂の陣までの14年間は武術に励むかたわら、下妻(茨城県)の多宝院にいる良尊禅師や、宇都宮の慧林寺にいた物外禅師を訪ねて、大愚や愚堂といった禅僧の指導を受けて修行に励んでいます。
このへんがほかの武士と違って、仏道への並々ならぬ関心の深さがうかがわれます。その間には結婚して、重辰という子どもに恵まれていました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、本多忠朝に従って父や弟らと参戦しています。
さらに翌年の夏の陣では、二代将軍の秀忠の先鋒隊として参戦します。このとき「甲付」の首二つをあげたというから、名のある二人の武将を討ち取ったのです。
ところが正三は、軍功を記録して恩賞の査定となる首帳に記帳することをやめています。人の命を奪って恩賞にあずかることを潔しとしなかったのです。
武士でありながら、仏教が禁じる人命を殺傷することに疑念をいだいていたのかもしれません。37歳でした。
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