若くして大徳寺の住持になった古渓
千利休に「茶禅一如」を伝えた古渓
総見院で織田信長の菩提を弔った古渓
利休の死後に大徳寺を破却から救った古渓宗陳とは、
いったいどのような人物だったのでしょうか―。
©悟東あすか
秀でた徳望
古渓宗陳は、戦国時代の真っ只中の天文元年(1532)に生まれています。
出身は、のちに織田信長に滅ぼされる越前(福井県)の朝倉氏といわれていますが、その信長の菩提を古渓が弔うことになるのは、まことに不思議なめぐり合わせです。
古渓は、朝倉氏が京都の大徳寺の壇越(布施をする信者)であったことから、若くして大徳寺に入って修行したのです。
古渓は、42歳の若さで大徳寺の住持になっていますから、その徳望は秀でていたようです。
世間にその存在が知られるようになったのは、本能寺で倒れた織田信長の葬儀が大徳寺で行なわれ、信長の菩提を弔うために豊臣秀吉によって創建された総見院の開山に請われたときからです。51歳のときでした。
信長の葬儀が大徳寺で行なわれたのは、茶人の千利休が、古渓のもとで参禅していたからでしょう。利休は、禅をとおして茶道の心を確立しようとしていたのです。
豊臣秀吉は、信長の後継者になるために葬儀を盛大に行ない、総見院を建立しますが、それだけでは不安だったのでしょう。
総見院とは別に信長のために大寺院の建立を公言しました。大徳寺の近くにある船岡山に天正寺という寺院を建てて、開山に古渓を迎えると約束したのです。
船岡山は標高110メートルほどの丘陵で、昔から景勝の地として親しまれていました。また葬送の地でもありました。
天正寺はすぐにも着工され、完成されるものと思われていました。
寺号は「太平山天正寺」と決まり、正親町天皇から「天正寺」と書かれた勅額もくだされていたからです。
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