一切を捨てて旅に出た一遍
二河白道を超える一念で歩んだ一遍
紫雲を呼び、花をふらせた 強靭な信仰心をもった一遍
踊り念仏で時宗を開いた一遍とは、
一体どんな人物であったのでしょうか
©悟東あすか
浄土を求めた旅立ち
一遍智真は、鎌倉中期の延応元年(1239)、伊予(愛媛)に生まれました。父は河野通広、祖父は通信、一遍は通尚といいました。
一遍の祖父の通信は、源平の合戦のさいは、源氏方の河野水軍として、瀬戸内海で勇名をはせましたが、承久の乱では朝廷方についたために、鎌倉幕府によって奥州の江刺に流されて領地を失っていました。一遍が生まれたときは、かろうじて断絶はまぬがれていましたが、一時の隆盛とは程遠い有り様でした。
13歳のときに九州に渡って、大宰府にいた浄土宗西山派の聖達のもとで12年間修行しています。聖達は、法然の直弟子で西山派の祖となる聖空に学んでいますから、一遍は法然の専修念仏の真髄に触れることができました。
しかし、25歳のとき、父の通広の死で故郷に帰って家督を継いでいます。妻妾をおいて、子供もなしたともいいます。このとき同居して仲のよい妻妾が、じつは激しい嫉妬の蛇になって互い噛み合っている。そんな夢を見て発心したといいます。
また親戚の中に一遍を殺害して家督を横領しようとする者がいたため、骨肉の争いに嫌気がさして、再び出家の生活に戻ったともいわれています。
33歳の春、なぜか突然、信州(長野)の善光寺に参詣し、ついで伊予の窪寺に参籠して、ついに念仏に一切を捧げようと発心したというのです。その後の一遍の遊行漂泊の旅は、愛欲や血族の葛藤を捨てたときから始まったといってもよいでしょう。
「二河白道」という仏教の比喩があります。旅人の行く手の左右から火焔と大波が迫り、その間にわずかな細い白い道しかありません。その細い道は、火と水におおわれて歩けそうもない。背後には刃や牙をむき出した群盗と猛獣が迫り、今にも襲いかかろうとしています。
前にも進めず、後ろにも戻れない絶体絶命の状態です。そのとき、「ひたすら真っ直ぐに歩め」という声がする。一歩を踏み出すと、「それでよい」という声があるが、「それでは死ぬぞ」との声もある。しかし、前方を見すえて、仏を信じて一心不乱に歩むだけです。
火と水は煩悩、後方は穢土、前方は浄土を意味し、煩悩に苛まれている人間は、仏を信じることの一念で発心して往生することができるという喩えです。一遍は、まさにこの「二河白道」を歩み出したのです。
日蓮が佐渡流罪を許され、蒙古が来襲するという緊迫していた文永11年(1274)、一遍は故郷を捨て、妻妾や子供を捨てて、遊行に旅立ったのです。それは浄土を求めた死出の旅路といってもよいものでした。
誕生の地・愛媛県松山市にある宝厳寺
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