日本仏教の開祖となる聖徳太子
法隆寺や四天王寺を建立した聖徳太子
「冠位十二階」「十七条の憲法」を定めて
国の基礎を築いた聖徳太子
現在にいたるまで「聖徳」の尊称で
仰がれ続ける聖徳太子とは、
いったいどのような人物だったのでしょうか──。
©悟東あすか
太子誕生の時代
日本の宗教家のなかで、浄土真宗を開いた親鸞ほど聖徳太子を讃えた人はいないでしょう。
「日本国帰命聖徳太子
仏法弘興の恩ふかし
有情救済の慈悲ひろし
奉讃不退ならしめよ」
(「皇太子聖徳奉讃」)
という和讃をはじめ、じつに二百首近くも聖徳太子について詠んでいます。
法隆寺金堂と五重塔(国宝)(画像・AdobeStock)
親鸞は和讃に「聖徳太子」「聖徳皇」と詠んでいますが、その名称で呼ばれるようになったのは、太子の没後およそ80年後のことで、奈良時代にあたります。
平安時代になると浄土信仰の高まりとともに、太子をこの世に出現した菩薩とあがめる傾向がめばえたのです。苦しみ悩む人が、太子を信仰すれば、太子の広大な慈悲によって救われるという「聖徳太子信仰」が民衆のあいだに広まって定着していったのです。
親鸞は、その信仰を信じた一人だったのですが、それは、だれでもが阿弥陀如来によって救われて、極楽往生できる、とする親鸞の信仰と同じ基盤になっています。
ところで聖徳太子が生存していたとき、どのように呼ばれていたのでしょうか。それは「厩戸王子」です。厩戸王子は、用明天皇の子として、574年前後に生まれています。
王子が生まれる前ころから、仏教を受け入れるかどうかで、物部氏と蘇我氏が権力闘争の様相を見せながら激しく対立していました。
『日本書記』によると、552年に朝鮮の百済から仏像がもたらされると、欽明天皇は、群臣に礼拝の可否をはかりました。蘇我氏は積極的に賛成しますが、物部氏は日本古来の「国神」が怒ると反対しました。
そこで天皇は蘇我氏に礼拝を許すと、疫病が流行し、多くの人が亡くなったのです。それを「国神」のたたりとみた物部氏は、仏像を難波の堀江に捨てたのです。
捨てられた仏像を拾ったのが、本田善光という人で、彼によって長野にもたらされて、これを本尊としたのが善光寺です。
ちなみに、この本尊は、ひとつの光背に阿弥陀如来と、その左右に観音・勢至菩薩がならぶもので、「一光三尊」といわれています。これは、のちに聖徳太子と生母と后がひとつの光背に納められているものと同じ様式です。
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