衰微する旧仏教を復興させた叡尊
貧民や病者の救済に心血を注いだ叡尊
元寇撃退の祈祷を行なって、全国民から注目された叡尊
鎌倉仏教の一翼をになって
権力者の支持を得た叡尊とは、一体どんな人物だったのでしょうか──
©悟東あすか
密教の修行と疑問
叡尊は、建仁元年(1201)、大和(奈良県)の添上郡(大和郡山市)に生まれました。鎌倉新仏教を開いた法然が69歳で、29歳の親鸞が法然に入門した年にあたります。
叡尊は、源義仲の末裔といわれる奈良興福寺の学僧の慶玄の子です。しかし母親が早く亡くなり、兄弟が多かったことから、幼くして他家に預けられて養育されています。
11歳のとき、醍醐寺の叡賢という人の住房に引き取られたことから、僧としての一歩を歩み出したようです。のちに同寺の栄実の住房に移っていますが、こうした寄るべのない境遇は、のちに社会的な弱者を救済する思いとなっていったのです。
叡尊は17歳のときに叡賢を師として出家しますが、真言密教はきわめて難解で、修行もむずかしいと考えていました。ところが、同じ醍醐寺の専操という僧侶から、
「真言は末世の凡夫を救う妙薬である。どうして、これを捨てて他宗を求めるのだ」
という熱心な勧めをうけて出家したのです。
24歳のとき、高野山にのぼって、阿闍梨の真経に師事しますが、兄が亡くなったために、心細くなった老父の意向で高野山を下りています。親思いの、優しい性格であったことが分かります。
叡尊は、奈良の寺々で密教の修行をつみ、ついに奥義をきわめた証の印可をさずかっています。しかし34歳のとき、大きな疑念に突き当たったのです。それは、
「弘法大師(空海)の秘法を受けついでいるはずの密教の僧侶たちが、堕落しているのは、なぜであろうか」
というものです。思索のすえに、弘法大師の教え、これはすなわち釈尊の教えでもありますが、それを守っていないからだと気づいたのです。