日本仏教を形づくった僧侶たち

「木食応其」―高野山を滅亡の危機から救った僧―

作家 武田鏡村
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戦国時代、武士から僧になった応其(おうご)。
五穀・十穀を断つ木食行を行なった応其。
豊臣秀吉の脅迫から高野山を救った応其。
秀吉から絶大な信任を受けた木食応其(もくじきおうご)とは、
いったいどんな人物だったのでしょうか――。

      ©悟東あすか

秀吉の脅迫

空海(弘法大師)が開いて以来、真言密教の法灯を守っていたのが高野山です。
ところが、戦国時代に伝統の法灯が断たれるという一大事が生じたのです。天下統一をめざす豊臣秀吉が紀州(和歌山県)に進軍してきたときのことです。

天正(てんしょう)13年(1585)春、秀吉は10万の大軍をひきいて紀州に進攻、抵抗する根来寺や粉河寺を炎上させます。
さらに紀ノ川沿いの雑賀衆(さいかしゅう)を攻め、立て籠もった太田城を水攻めにする一方、熊野の本宮や新宮も制圧したのです。
そのうえで秀吉は、高野山に対して、
「高野山が持っている寺領を没収する。武器の所持を禁止する。反逆者を匿うことを禁じる。この三つの条件に従わなければ、全山を焼きはらう」
と告げたのでした。高野山の僧侶たちは、おおいに狼狽します。

高野山は長年にわたって学侶(がくりょ)といわれる学僧方と、行人(ぎょうにん)と呼ばれる堂衆方が対立していました。
ところが、この事態にあたっても、衆議が決らず、しかも秀吉への使者になる者も名のりをあげることがなかったのです。
このとき使者になると進み出たのが、木食応其だったのです。

応其は、天文(てんもん)5年(1536)に近江(滋賀県)に生まれています。佐々木氏に仕えた武士で、織田信長の近江平定のさいに近江をはなれています。
その後に仕えた大和(奈良県)の越智(おち)氏が没落すると、天正元年(1573)、38歳のときに高野山に入り、木食行を積みます。

木食行とは、もちろん肉や魚を食することは厳禁で、千日の間は米・麦・粟(あわ)・黍(きび)・大豆の五穀を断ちます。
さらに千日の間、先の五穀に加えて、蕎麦・稗(ひえ)・小豆・玉蜀黍(とうもろこし)・芋の計10種類の食べ物を断ちます。これを十穀断ちといいます。

こうした五穀・十穀断ちは、昔から行なわれておりますが、木の実や草などで命をつなぐことは、きわめて困難な修行で、それを成就した人は、「木食上人(しょうにん)」と呼ばれて尊崇されています。

江戸時代では、木食仏といわれる微笑をたたえる木像を彫った五行明満(ごぎょうみょうまん)なども木食上人と呼ばれています。
おそらく応其は、38歳から千日間の五穀断ち、さらに千日間の十穀断ちという荒行を、およそ6年にわたって行なったと思われます。そのため、その超人ぶりに高野山の学侶も行人も一目置いたのでしょう。
その応其が、高野山を救うために立ち上がったのです。

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