衰微していた本願寺を復興させた蓮如(れんにょ)。
争乱の中でも念仏信仰を説き続け、
圧倒的に民衆を引きつけて本願寺王国を築きました。
民衆の力を信仰のもとに結集させて、
本願寺教団を飛躍させた蓮如とは、
一体どんな人物だったのでしょうか―
©悟東あすか
苦難を乗り越え法主に
蓮如が生まれたのは応永(おうえい)22年(1415)、足利四代将軍の義持(よしもち)のときで、すでに室町幕府の屋台骨は弱体化して、内乱や一揆にしばしば見舞われていた時代でした。
浄土真宗を開いた親鸞の「血脈」を誇る本願寺(ほんがんじ)は、蓮如が生まれたころは、わずかな門徒の支えはあったものの、「人せきたえて、参詣の人一人も見えず、さびさびとした」状態であったのです。
一方、親鸞の教えを継ぐ「法脈」を誇る仏光寺(ぶっこうじ)では、金銭などを納めて「名帳(みょうちょう)」や「絵系図(えけいず)」に名前を書いてもらうと極楽往生ができる、という布教方法を取っていたために、多くの門徒を集めて栄えていました。
蓮如は、親鸞の血脈となる本願寺七代目の存如(ぞんにょ)と、当時では賤しい身分とされた下女の間に生まれたといいます。実母は存如が正式に結婚するとき、六歳の蓮如を残して突然、姿を消しました。
「わが母は、わが身六つの年に捨てて、行き方しらざりし」
と蓮如は書いていますが、晩年にいたるまで実母を探し求めたのでした。継母となった如円(にょえん)は、子供が生まれると蓮如に冷たくあたりました。
本願寺の台所は相変わらず苦しかったのですが、蓮如は妻を迎えて次々に子供が生まれます。しかし、生活苦のために長男を残して、みな里子に出さざるをえなかったのでした。それでも食事には事欠き、一人分の汁を三人分に薄めたとか、衣服は紙子(かみこ)といわれた紙を着て、赤子のオムツは自ら洗ったと晩年になって語っています。
蓮如が43歳のとき、父の存如が亡くなりました。順当であれば、妾腹とはいえ長男の蓮如が本願寺法主になるはずですが、正妻の如円は自分の子の応玄(おうげん)を跡継ぎにしようと画策したのです。存如の葬儀には応玄を喪主として、血縁や末寺の了解も取りつけて、応玄が八代法主に決りかけていました。
ところが土壇場で、存如の弟で北陸地方の本願寺教団を支えていた如乗(にょじょう)が正論を説いたのです。
「蓮如は庶子といえども長男である。しかも先代の存如から相続の譲り状もあるから、蓮如が継ぐのは当然である」
如乗の発言で形勢は逆転し、蓮如の相続が認められたのです。相続争いに敗れた如円と応玄は、本願寺の財物を奪って立ち去ったのでした。あとに残されたのは、「ただ一尺ばかりの味噌桶一つと代物百疋」でした。
蓮如が法主としてスタートしたのは、わずかに親鸞の血筋を引いていることと、部屋住み時代に親鸞の教えを徹底して学習したことで、あとはゼロからの出発でした。
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