比叡山に入って五つの誓いを立てた最澄
桓武天皇から絶大な信任をえて、中国に渡った最澄
天台宗を開いて延暦寺を創建した最澄とは、
一体どんな人物だったのでしょうか
比叡山入山への誓い
最澄は、比叡山の東方にある近江(滋賀県)の三津ヶ浜で生まれました。神護景雲(じんごけいうん)元年(767)といいますから、平城京(奈良)に都があったころです。
『叡山大師伝』によると、父親は自宅を寺にするほど熱心な仏教徒でしたが、子供のいないことを悲しんで、比叡山に上って祈願したところ、最澄を授かったといいます。
最澄は生まれながらにして比叡山の申し子で、しかも57年の生涯の大半をそこで過すことになるのです。
最澄は19歳で奈良の東大寺戒壇院(かいだんいん)で僧侶になりますが、比叡山に上って庵を結びます。東大寺で正式な具足戒(ぐそくかい)を受けた者は、前途に洋々たる地位が約束されていましたが、彼はその道を決然と捨てたのです。
政治に癒着して、すっかり形骸化していた南都仏教に飽き足らない思いがあったからです。
比叡山に籠った最澄は、この世の無常を嘆じ、かつ痛烈な自己批判のすえに、「入山願文」を表わして、五つの誓いを立てました。
一、私が真に仏教に精通しない間は、決して他人のことには口を出さない。
二、真理をつかみ、仏教の真髄を体得するまでは、修行以外の遊びごとに心を動かさない。
三、僧侶として戒律が守れなかったなら、法会に招かれても行かない。
四、一切のものへの執着がなくならない限り、世間のことには関わりあわない。
五、修行で得た功徳は、すべて生きとし生きるものに分け与え、一切をあげて悟りの境地に導く。
そして、この誓いは、「解脱(悟り)の味をひとり飲まず、安楽の果をひとり証せず、法界(ほっかい)の衆生と同じく妙覚(みょうかく)に登らん」という真摯なものでした。
この五つの誓いを修行の信条にした最澄は、比叡山で研鑽の日々を送り、なんと12年にも及ぶ厳しい修行の末に、ついに求め続けた新しい仏教の方向を確立したのです。
それは、すべての人間や非情の草木であっても成仏することができるという、「悉皆(しっかい)成仏」の天台教学です。そこには、国家鎮護を説くだけの南都仏教には見られない展開がありました。
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