病者を背負って物乞いを助けた忍性
文殊菩薩への信仰を深めて、弱者を救済した忍性
叡尊のもとで出家して、鎌倉に極楽寺を建てた忍性
日本で初めて病舎を造って、多くの人を救った忍性とは、一体どんな人物だったのでしょうか——。
©悟東あすか
母の供養と宿願
忍性(字は良観)は、建保5年(1217)、大和(奈良県)の磯城郡三宅町に生まれています。
幼いころから親に連れられて、信貴山に詣でて、文殊菩薩への信仰を教えられました。
文殊信仰は、文殊菩薩が貧窮者や孤独な人、病気や苦悩を背負う衆生に身を変えて、信じる人の前に現われるというものです。
忍性の師匠となる叡尊は、文殊信仰の教説にしたがって、病人などを生身の文殊菩薩と見立てて、限りない施しを行ない、それをもって文殊菩薩を供養することを発願しています。
忍性も、こうした文殊信仰に深く帰依しました。
十六歳のとき、母親が病床にふしました。
臨終のとき、「お前の出家した姿を、この目で見て死にたい」と切望しました。
すると、母思いの忍性は、にわかに髪をそり落として、法衣を着て僧形になって、母親を見送ったといいます。
しかも、母親の菩提を弔うために、東大寺の戒壇院で受戒しますが、一念発起するところがあって、出家はしなかったといいます。
23歳のときに西大寺にいる叡尊と会い、出家をすすめられました。叡尊は、忍性の文殊信仰の篤さを知っていたのです。
忍性は、涙ながらに母への愛惜と剃髪のしだいを語りました。
「私は若輩にして、亡き母の慈愛にむくいる道は知りません。
ただ、文殊菩薩さまの威光を受けて、母の十三回忌をむかえるまでに、七幅の文殊画像をつくりあげる決心をしております。この宿願を果たしたうえで、出家したいと思います」
この忍性の決意は、同じように母親を早く失っていた叡尊をいたく感動させたのです。
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