禅道を求めて敢然と中国に留学した道元
名誉や名声を顧みずに、修行に徹する
仏道を示した道元
曹洞宗の開祖となり
その教えが現在でも受容されている道元とは、
一体どんな人物だったのでしょうか
©悟東あすか
幼くして両親と死別
母親の存在は、特に男の子には無意識に影響を及ぼすといいますが、道元の生き方に決定的な影響を及ぼしたのが、母親の伊子です。
伊子の父親は、前関白の藤原(松殿)基房ですが、彼は朝廷への復帰と子の師家を摂政につけようとして、軍勢をもって京都に入って平家を追い払った木曽義仲にとりいろうと、16歳の伊子を嫁がせたのです。
武力を背景にして征夷大将軍になった義仲が、わずか2ヵ月で源義経らによって敗死してしまいます。若くして寡婦となった伊子は、再び父の野望によって、土御門天皇の外祖父となって権勢をほこる源(久我)通親のもとに嫁がせられたのです。
道元は、当時では最高の身分にあった通親と伊子の間に生まれています。正治2年(1200)の誕生ですから、ちょうど日本に禅法を伝えた栄西が、鎌倉幕府で実権をにぎる北条政子が創建した鎌倉の寿福寺の住持になった年にあたります。名門の子である道元の将来は、生まれながらに前途洋々と思われました。
ところが3歳のとき、父親が政敵に殺されたのか頓死したのです。その5年後には、「人の世の無常」を嘆き続けていた母親も亡くなったのです。母の兄で元摂政の師家は、道元を養子にして朝廷の高官につかせようとしますが、これを拒絶しています。
永平寺山門(写真提供・公益社団法人福井県観光協会)
道元にとって、政治に弄ばれたとしか思えない父母の姿をとおして、政治につながる権力や官職を嫌悪し続けました。さらに母親が嘆いていた「人の世の無常」を見つめて、それを超える道を求めるために、13歳の時に伯父の師家がとめるのも聞かずに出家したのでした。母親の嘆いたものを、仏道をとおして救いたいという思いがあったのです。また出家することで、栄達や名利を求めて争う世俗的なものから離れることができるからです。
これは道元が、嘆くだけの無常観から、命を生ききるための積極的な無常観を確立する動機になっていたと思われます。また一切の世俗的な権威を求めずに、一切が「無」であるとする禅道に引かれていった背景であるようです。
バックナンバー「 日本仏教を形づくった僧侶たち」