民衆の生活向上に尽力した行基
飢餓難民を全力で救済し続けた行基
朝廷から嫌われたものの、東大寺大仏の創建に貢献した行基
菩薩として慕われ、崇められた行基とは、一体どんな人物であったのでしょうか―
©悟東あすか
人心掌握は天賦の才
行基は、天皇家を二分した壬申の乱の4年前の天智7年(668)に、現在の大阪府堺市にあたる和泉国大島郡で生まれました。生家は、のちに家原寺という寺院になっています。
行基には、幼いときから人心をつかんで、指導する才能があったようです。鎌倉時代に著わされた『元亨釈書』には、いささかオーバーですが、行基のそうした才能を記しています。
「幼いとき、子供たちと遊んでいると、いつも仏道を賛唱しはじめた。すると子供たちは、牛や馬をうち捨てて行基の後につき従ったが、その数は数百人にものぼった」
多くの人々を指導して、民衆のために大規模な土木工事を成功させた統率力は、天賦のものだったのでしょう。しかし皮肉なことに、このすぐれた指導力のために後年、朝廷からうとまれると同時に、ないがしろにできない存在として注目されるのです。
14歳で出家した行基は、飛鳥寺や薬師寺で修行をつみますが、その間に道昭という僧から、大きな影響を受けます。
道昭は、中国唐の長安にいた玄奘に師事して、禅学と唯識学を学んでいます。玄奘は『西遊記』のモデルとして有名な三蔵法師です。道昭は、帰国すると飛鳥寺に禅院をつくっています。
その後、道昭は各地を布教しながら、井戸のない土地には井戸を掘り、渡し場に船を備えるなどの社会事業に尽くしました。行基は、この道昭の布教実践にふれて、仏教の教えの根本に目を開いたのです。
当時の僧侶は、国家の統制もあって、寺院にこもって、ひたすら学問と修行をするだけでした。世間に出て布教することなどは、固く禁じられていたのです。それは「僧尼令」に規定されていたもので、それを身をもって打破したのが、道昭であり、行基でした。
「仏教のありがたい教えは、朝廷や僧侶だけのものではないはずだ。むしろ生活苦にあえぐ民衆にこそ与えられるべきだ」
行基は道昭が亡くなると、この信念を果敢に実践したのです。33歳のときでした。ちなみに道昭は土葬ではなく、火葬にふされていますが、これが火葬のはじまりであるといわれています。
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