心の癖で湧いてくるもの
ところでブッタによれば、十二因縁のうちの「受」までは、人間としてこの現実世界を生きているかぎり、ふっと湧いてきてしまうものです。
「六根」、つまり感覚器官としての五感(眼、耳、鼻、舌、身)プラス心(意)とその対象である「六境」(色、声、香、味、触、法)、それに一人ひとりが持つ心の癖、あるいは傾向性である「六識」(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が加わって三者和合することを「触」と呼びます。これは「認識」とだいたい同義になります。
「無明」から始まってこの「触」までの過程を「無自覚的(恣意的)に人は見たいものを見たいように見ている」と表現することも可能かと思います。私たちは通常、誰もが同じ世界を見て、同じように認識しているように思いがちですが、でも厳密に見れば、一人ひとりが異なった世界に触れている、生きているのです。それゆえ、そこで生じてくる気分も人それぞれ異なってきます。こうした気分、情動を「受」と称します。
「受」には快、不快、そして快でも不快でもない中性的な感覚の三種があります。
真理を悟りきっていない我々凡夫は、人それぞれ心の癖にしたがって、世界を立ち上がらせ、意味づけ、味わっていることになるわけです。
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