「受」で感じる快・不快・不苦不楽
十二因縁の教えでは、「受」の段階をとても重視しています。「受」はパーリ語でヴェダナーと言い、先ほど申し上げたとおり、快、不快、中性の三種があります。
私たちは日々、瞬間瞬間に、いろいろな色や形、音や声、さまざまな香り、味、身体的な感触と触れています。一般にこれは外界のものとの接触と理解されています。
それから内界のもの。心と称されるものですね。いろいろな記憶に触れたり、さまざまイメージや気分に触れてみたりとか。そしてそれに触れた瞬間に心地よさを感じたり、不快感に襲われたり、あるいは、快でも不快でもない気分(不苦不楽)を感じているのです。
〝反応〟としての貪り・瞋り・痴
そうした気分にしっかりと気づいていないと、あるいは自覚していないとどうなるかといえば、快を感じた時には、基本的には「貪」、すなわち貪る方向、運動観点で言えば引力が働き、対象に引き付けられていっちゃう、あるいは手離せずに、しがみついちゃうような反応が起こります。
一方、不快だと「瞋」、反発する反応が起こります。「貪」が引力とすれば、「瞋」には斥力が働きます。磁石のプラス同士を近づけたときに反発し合うような力ですね。ところで、反発して目をそらしたり逃げる場合もあれば、戦ったりするような態度に出ることもあります。それで対象を否定していったり、あるいは嫌悪したりしてしまうことにもなります。こうした状態を表すのに一番近い表現として「怒り」とも呼ばれているわけです。
それともう一つ、快でも不快でもない中性的な感覚に触れるとどうなるかと言うと、「痴」といわれる反応が起こります。
これは、刺激がないからボケーっと呆けてしまうような。あるいは心が浮ついて頭が真っ白になったり、何がどうなっているのか、どっちへ行ったらいいかがわからなくなったりして、グルグル迷って回り続けてしまうような状態が「痴」です。
我を忘れてしまうと、こうした〝貪瞋痴反応〟が起こるのです。そうした三種の反応を「渇愛」としてご理解いただくと、分かりやすいと思います。いずれも我知らずに〝反応〟してしまっているわけですね。無自覚でいると、次にハマり込んで執着となる。引っ張られた挙句に今度はどっぷりとそこにハマり込んでしまうわけです。怒りであれば、怒りそのものになりきっちゃっている状態が仏教でいう「取」、執着という段階です。
渇愛の段階の引っ張られている感じと異なって、もう欲や怒りそのものになってしまう。そういった同一化状態が「取」です。最近の認知療法でいうところのフュージョン、融合状態、ネバネバとして離れないような状態ですね。
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