未熟な心の育て方〜「貪・瞋・痴」反応から「念・定・慧」対応へ
覚醒力と受容力と洞察力――気づき、受け止め、理解する。これをわかりやすくするために、「子育て」を例にとってお話します。
未成熟な心というのは年端のいかない子供のようなものです。子供たちは生々しい情動の塊のような存在ですね。快のときには素直に喜びを表し、不快なときは癇癪を起こしてワーワー騒いだり、悲しんでエーンエーンと泣きわめいたりします。
そのように子供たちが素直に感情を放出したとき、親に受け止める度量がない場合、そうした子供の感情に動揺して取り越し苦労をしてしまい、常に子供を監視して「過干渉」してしまうことがあります。あるいは、子供が手に負えず、思わずひっぱたいたり殴ったり「虐待」してしまうことも。その他、子育ての放棄、いわゆるネグレクトしてしまうケースもあります。これら「過干渉」「虐待」「ネグレクト」こそが、アダルトチルドレンの人たちの家庭でよく起こっている三つの要素であり、そうした機能不全家庭で育つことにより、子供は成人してもなおトラウマを抱え、実生活や人間関係の構築にあたって大変な困難に見舞われることになるわけです。
ところで、私たちは生々しい情動がふっと湧いてきたとき、同じような反応をしていないでしょうか? 例えば、自分の感情にいつまでもこだわり続けるなど、こうした心への「過干渉」が「貪」にあたります。あるいは、自分の心が手に負えず、思わず否定したり、自己嫌悪してしまったり、このように自身の心を「虐待」してしまうこともあります。これは「瞋」にあたりましょう。それから、自分の心にしっかりと向き合うことなく、甘いものやお酒に逃げてしまうなど、自分の心に対してネグレクトして、心を育てることを放棄してしまうこともありましょう。これは「痴」にあたるといえます。
こうした「貪・瞋・痴」反応をしている限り、私たちの心は健全に育つことなく、苦しみの連鎖を続けてしまうことになるのです。
これに対して、「念・定・慧」対応というのは、自分の内に湧いてきた生々しい情動やイメージに対しても、それをあるがままに気づき、受け止め、理解するという対応を取ることを言います。他の言葉で言えば、覚醒、受容、洞察を持って対応するということです。
気づくというのは見守ることです。受け止めるというのは受容。そして、あるがままに理解していく。子供の感情に翻弄されることなく、適切な対応を通して子供を健全に育てるのと同様に、心に対しても正しい対応を繰り返していくことによって、心を健全に育てていくことができるのです。
心にはさまざまな状態が起こってきてきます。それは心の内容物、「コンテンツ」ということができます。ところでブッタの瞑想の特徴は、そうした心の状態自体を変えていこうといったアプローチはとらず、こうした心の内容物に対して正しく「念・定・慧」対応していこうとする。いわば、正しい文脈、「コンテクスト」を培っていくことを重視していくのです。
タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。
以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
著者:カンポン・トーンブンヌム
監訳:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発行日:2007年11月
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