インタビュー

“私”の成立とその正体 スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー④(最終回)

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ブッタと弟子の対話にこういうものがあります。たいへん重要な逸話ですが、残念ながら日本ではあまり紹介されてきてはいないようです。確か弟子は、シャーリプッタ(舎利弗)だったと記憶しています。

シャーリプッタがブッダに問います。「苦しみが起こるのは、何によるのですか? 他者や社会とかが苦しみを与えてくるのでしょうか?」と。ブッダはその問いに対して「違う」と言われたんですね。

そこでまたシャーリプッタが問います。「では自分が原因ですか? 自分自身が苦しみを作っているということですか?」。ブッダはそれも「違う」と。

「それでは、苦しみというのは偶然、起こったことですか? たまたま起こってくるというわけですか?」という問いに対しても、「違います」とブッダは答えます。

「それでは苦しみというのは無なんですね。苦しみはこの世に本当は無いということなのですか?」。その問いにもブッダは「いや、たしかに有る。起こってくる」と。

さすがのシャーリプッタもついに降参、ブッダに「苦について教えてください」と回答を請いました。

そこでブッダは、「無明に縁りて行あり、行に縁りて識あり…これのごときがすべての苦悩の原因なり」と、十二支よりなる苦しみの生起の縁起を説き、また、「無明の滅に縁りて、行の滅あり…これのごときがすべての苦しみの滅なり」と、十二支よりなる苦しみの消滅の縁起を説いたというわけです。

普通私たちは、「誰々さんのせいで苦しんでいる」とか、「私のせいだ」とかいった風に考えてしまいます。すなわち問題の解決そのものよりも犯人探しに躍起になってしまいがちなのです。これは「自我」を前提にしたモノの考え方によるものです。しかし先述した縁起の観点から原因を探っていけば、今ここにある苦しみを理に基づいて解決していくことが可能になるのです。

“私”や“誰か”といった「存在」ではなく「現象」のほうを縁起観で見ていくのが「正見」です。正見で、「犯人探し」や「正誤論争」にうつつを抜かさずに、しっかりと苦を見ていく。そして正見がさらに深まると、苦とその原因を見ていくことになるのです。苦諦に始まって、さらに集諦を看破していくということですね。

誰かのせいにしたり、逆に自分を責めてみたり、「私が正しい」「あなたは間違っている」などと言い争っている限り、苦しみを解決する焦点がずれ、決して問題の解決には至らないのです。

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