インタビュー

“私”の成立とその正体 スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー④(最終回)

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“私”の正体

ブッダは、そうした「私が」「あなたが」といった自我的な見方に対して、「無我」を説きました。無我の定義は、「私ではない。私のものではない。私という本質はない」というものです。

仏教では、 私の見解への固執を「けん」と言います。
それから、「私のもの」への執着は「とん」。
“私”という本質があると信じ、相手より優れている、劣っているなどと比較してしまうことを「まん」と言います。

こうした「見・貪・慢」に覆われていない無我的な見方が正見です。

“私”というのは構築化された概念です。私って、それは実体としてあるわけじゃなくて、自分の今までの過去の経験をいろいろ合わせて、おおよそのまとまりとして捉えたのが、“私”と呼んでいるものの正体であり、それと関連付けられたものを「私のもの」と呼んだり、それによって、他者と比較することも可能となったわけです。

このように“私”を概念的に構築できた結果、私たちは自身の複数の行動を統合的に認知し、行動に首尾一貫性を持たせ、社会的人間として機能することが可能になったのです。またそのことによって、成長の初期段階において遭遇する生々しい苦しみを軽減させることも可能になりました。しかしながら、そうした「自我機能」へ同一化してしまうことにより種々の人間的な悩み苦しみも生ずることになったわけです。

そんな意味で、苦しみは自我構築の「副作用」ともみなせるでしょうね。

ところでブッダは、「『我』をしっかりと具足している修行者は、聖なる道を修め成就することを期して待つことができるのである」というようなことを語っています。
また、そのようなブッダの様子を見た弟子が、「『われ語る』、『人語る』と言うが、目覚めた人(=ブッダ)はこの世の中で人が使う言葉を知っており、当然『慣例』で話すだけで、世間的名称、世間の言葉、世間の概念を使っても執着していない」と言ったりもしているのです。

すなわち、ブッダは決して自我それ自身を否定しているわけではなく、それと同一化してしまったり、執着してしまったりしないようにと言っていたわけです。

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