インタビュー

“私”の成立とその正体 スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー④(最終回)

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“私”はどのように成立するか

十二因縁で説明すると、「取」から「有」→「生」へと進んでいくプロセスで「私」が構築されていくことになります。ここでは過去の一連の行為と心理的な現象の恣意的な抽出と綜合により性格が構築され、これを認知するようになります。

すなわち、これは好き、これは嫌い、これはいい、これは悪い…などと選り分けているうちに、だんだんとおおよその輪郭ができてきて、「性格」や「キャラ」といったようなものが構成されていく。さらに心は内省可能ゆえに、そうした性格やキャラを「自己イメージ」として認知し、実体化していく。こうして「私」なるものが成立してくるわけです。

私たちは、何かを捉えるとき、その対象に意識をフォーカスして、同時にそれを意味付けるということを日常的に行っています。これが「識」の作用です。自分の内面に触れるときも同様です。私たちは特定の心の現象にフォーカスを絞り、それにたえず意味付けています。

例えばうつ傾向がある人は、不快な気分やイメージに焦点を当て、さらにネガティブな意味付けを与えたり、自分を主人公とした悲劇の「物語」を構築してしまいがちなのです。

前向きで創造的な捉え方へ

こうした心のカラクリを正見によって看破していく。すなわち、私たちが無自覚にクセになってしまっている「識」のフィルターを通して外面(世界)、内面(心)を見る視点から、正見や智慧で観る視点に移行していく。こうした変容のあり方を「転識得智」と言ったりもしています。

こうして正しく物事を観ることにより、例えば失敗体験が記憶に上ってきたときに、それをブツブツと後悔したり、失敗した自分を嫌悪や否定したり、あるいは「また失敗してしまうのではないか」など不安に駆られたりということなしに、「あのときはああいう失敗をしたんだ、こういう感じでやったから、こんな失敗をしてしまった。だからこうしていけばいいんだな、よし今度はこうしていこう!」と、前向きで創造的ないわゆる「教訓物語」を紡いでいくことが可能になるわけです。

ひとたびそういった回路が出来あがってくれば、その後、世界に生じてくるどんな出来事も、人間関係においてどんな言葉がかけられようと、そして心の中に生じてくる記憶やイメージ、あるいは気分がどんなものであろうと、それを不安や後悔、自己嫌悪や怒りにせずに、ちゃんとそれから学びを得ていくことができるようになっていきます。

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