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妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 森 澄雄
俳句を読んでゆくとき、上から下へとゆっくりと読んでゆくわけですが、「妻がゐて」と読んだときに妻がいる場所を想像します。たとえばリビングでくつろいでいる場面とかを思い浮かべます。次の「夜長を言へり」で、妻が「夜も長くなって、もうすっかり秋ですね」と言っている映像を自分の頭のなかに組み立ててゆきます。
そして最後の「さう思ふ」で自分も「そうだね」と頷き返しているのです。その夫婦の会話をそのまま俳句にしたのです。妻の言葉に「さう思ふ」とうべなうことによって仲の良い夫婦が「いま」「ここに」いることの幸せを感じさせてくれます。
なれゆゑにこの世よかりし盆の花 森 澄雄
ところが、妻が亡くなってしまって一人になったとき、「妻がいてこそのこの世なのだ」と、お盆の花を供えながらつくづく思っているのです。このように亡くなって初めて「気づく」こともあります。この世に生きてあることだけで十分いとおしいのではないのでしょうか。
はるかまで旅してゐたり昼寝覚 森 澄雄
昼寝をして夢でも見たのでしょう。この「はるかまで」は、近江とかシルクロードとか実際にある遠い場所ではなく、「かの世」ではないでしょうか。時空を超えて向こうの世界を覗いてきて、ポッとこの世に浮かび上がって昼寝から目覚めたという感覚なのでしょう。
腕組んでしづかにをれば小鳥来る 森 澄雄
腕組みをして静かに佇んでいると小鳥たちが渡ってくるよ、というのです。ここに静かな時間と静かな空間があることに気づかされます。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
出版社:花神社
定価:本体1,500円+税
発行日:1992年8月25日