気づきの俳句

『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(9)

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画像・AdobeStock

 

人はみななにかにはげみ初桜          深見けん二

そろそろ桜が咲き始めましたね。学生は卒業式であったり、会社では新入社員を迎えたりします。何かが終り、何かが始まる、そんな桜の咲く春は、人は誰でも何かに励んでいるのだ、と作者は感じているのです。みんな一生懸命に生きているのです。人も桜も蝶も……。

そして、咲き始めた桜はしだいに満開になり、花吹雪となって散ってゆきます。

わが胸を貫くほどに花吹雪           深見けん二

花吹雪を全身に浴びていると、桜の花びらひとつひとつが自分の胸を貫いていっているようだと感じているのです。満開の桜の花のいのちに包まれて、自分と桜とが一体になっているような感覚があるのでしょう。

蝶に会ひ人に会ひ又蝶に会ふ          深見けん二

春の野を歩いていると、黄色い蝶と出会います。また、歩き進めて行くと今度は人と出会います。さらに歩いて行きますと、また蝶に会います。今度の蝶は紋白蝶なのでしょうか。人は何かと出会って生きていきます。自分のいのちと他のもののいのちとが出会っているのです。そして、この地球にあって蝶のいのちも人のいのちも同じいのちと、作者は言っているような気がします。

そこまでが少し先まで蝶の昼          深見けん二

ちょっとそこまでと言って家を出たのですが、蝶に導かれたのでしょうか、もう少し先までと歩を伸ばして行ったのです。

穴を出し蟻一匹に庭動く            深見けん二

啓蟄のころになると、冬眠していた蛙や蛇が穴を出て動き出します。蟻も地中の巣から出てきて働き始めます。その蟻一匹を見て、自分の家の庭の草木虫魚が動き出したと感じたのです。もっと言えば、穴から出てきた一匹の蟻に自然の天地の胎動を感じたのかもしれませんね。

人ゐても人ゐなくても赤とんぼ          深見けん二

人がいてもいなくても、赤とんぼは飛び回っているのです。自分がいなくなってしまった世界を意識しているのかもしれませんね。

そして、自分はというと、

万緑の一点となりわが命             深見けん二

青々とした樹木の生命力の中に自分のいのちが抱かれているような感覚ではないでしょうか。こうして見てきますと、桜も蝶も赤とんぼも人も
みんな同じいのちなのだと気づかされます。

深見けん二は、「平素、自然、人生を疎かに見ていては、句に背景が生まれず、いくらものを見ていても、ものは見えては来ないのである」とエッセイ集『折にふれて』で言っております。つまり、ものを正しく見るということは、自分を正しく見るということなのでしょう。そうすることで自分が天地とともに在るということに気づくのです。そうすれば心の自由が得られるかもしれませんよ。心が自由になれば俳句が授かるのです。

 

*  *  *

私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。

芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。

石嶌 岳(俳人)

夕茜
著者:深見けん二
出版社:ふらんす堂
定価:本体2000円+税
発行日:2018年3月
深見けん二句集『折にふれて』
著者:深見けん二
出版社:ふらんす堂
定価:本体1500円+税
発行日:2007年6月
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