画像・AdobeStock
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
鞦韆はブランコのことです。中国では春になると宮廷の女性たちが着飾ってブランコに乗って遊んだそうです。みなさんもブランコを漕いだことがありますよね。ブランコを漕いでいると体が揺れるのと同時に心も揺さぶられてくる感じがしませんか。その心の高ぶりが最高潮に達したとき、愛は奪うものだと気づいたのであります。「漕ぐべし」「奪ふべし」という命令形に強さが出ています。
笹鳴に逢ひたき人のあるにはある 三橋鷹女
春にホーホケキョと鳴く鶯も、冬は「チャッ、チャッ」と舌鼓を打つように地鳴きをします。そんな寒い時期に「まあ、逢いたい人はいるにはいるのだが……」と呟いているのです。そんな心の揺れを見つめて俳句にしております。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 三橋鷹女
みなさんも嫌いなものは嫌いですよね。夏痩せをしても嫌いなものは食べたくないですよね。それと同じように嫌いな人は会うのも嫌ですよね。この中七下五の表現にはっきりとした自己主張があります。それがこの句の魅力であります。
みんな夢雪割草が咲いたのね 三橋鷹女
雪割草は、早春に白色や紅紫色の小さな花を咲かせます。眠っていますといろいろなことが夢に現われてきます。夢のなかで逢った人も出来事も、眼が覚めてしまえば「みんな夢だったのね」と気づくことはありますよね。そして、今、目の前には可憐な雪割草が咲いているのです。そんな句ですが、今、この世にこうして生きていることもまた夢のなかのことかもしれないのです。
三橋鷹女は、「一句を書くことは、一片の鱗の剥脱である。四十代に入つて初めてこの事を識つた」と書いております。そして続けて言います。 「一片の鱗の剥脱は、生きてゐることの証だと思ふ」とね。だから、「『生きて 書け──』と心を励ます」と言うのです。
生きてあることの、鷹女のいのちの気づきが俳句のなかに込められているのではないでしょうか。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女
老いながら椿となつて踊りけり 三橋鷹女
鷹女は、自分の心のなかの風景を見て、それを俳句にしていっています。一句詠むことで、一つの心が剥がれ落ちていっているのかもしれませんね。
* * *
私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
出版社:朝日文庫
定価:本体560円+税
発行日:1984年10月