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愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
愛されていないんだと気づいたとき、みなさんはどうしていますか。
この作者は、愛されていないと気づいたとき、心がもやもやとしてさすらっているというマインドワンダリングの状態から脱するためにひたすら沖へ向かって泳いでいるのであります。泳ぐことに集中することで次から次へと湧いて来る雑念妄想を解消してマインドフルネスの状態に置こうとしているのです。泳いでいる間は無心でいられるのでしょう。
そして、そうしたことを客観的に見ているもう一人の自分がいて、俳句に詠んでいるのです。この句を作ったとき、藤田湘子は、「すこし胸の閊えが下りたような気がした」と言っております。
月明の一痕としてわが歩む 藤田湘子
月の下を歩いているのですが、明るい月の光で生まれた自分の黒々とした影を見つめているのです。そして、自分が歩んできた道程を思っているのです。「一痕」という言葉に痛みと孤独を感じさせてくれます。
春の草孤独がわれを鍛へしよ 藤田湘子
そんな孤独が自分の心を鍛えてくれたというのです。ふと足許を見ると、春になって萌え出た草々がみずみずしく芳しいのです。「孤独」の暗さと「春の草」の明るさとが対比的に詠まれています。
口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か 藤田湘子
真夏の太陽が照りつけている海浜を水着で歩きながら口笛を吹いたのです。そのときゴッホが死んだのは夏だっただろうかと思ったのです。それをそのまま俳句に詠んでいます。ゴッホの絵は、「ひまわり」など力強い色彩が印象的ですよね。亡くなったのは七月二十九日で、夏です。
ゆくゆくはわが名も消えて春の暮 藤田湘子
そんな自分もゆくゆくは亡くなって、春の夕暮の景だけがあるというのです。春の茫洋とした夕暮の中にいのちが溶けていってしまいそうです。不在の景が広がっています。
湯豆腐や死後に褒められようと思ふ 藤田湘子
そして、お酒を飲みながら湯豆腐を食べていると、自分は死んだ後に褒められればいいのだと思うのです。湯豆腐にいのちが透き通ってくるような透明感があります。死後に褒められるように「今」「ここ」で一所懸命に生きるのです。
暑けれど佳き世ならねど生きようぞ 藤田湘子
* * *
私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
出版社:株式会社 角川書店
定価:本体6,000円+税
発行日:2009年4月