「僕らにとって坐骨は、坐禅をするための骨なのです」と語る藤田一照師
「只管打坐入門――ブッダ樹下の打坐へ帰る」
藤田一照:曹洞宗僧侶、大空山磨塼寺住職、曹洞宗国際センター(サンフランシスコ)2代所長。
* * *
坐骨、仙骨を使って、自然に坐禅することを学ぶワークが丁寧に行われた後、藤田一照さんは語り始めました。
「生命の特徴は“生かされて生きている”ということです」と。
「しかし僕らは、生きているというところしか見ていない、円の半分しか見ていない、上半分しか視野に入っていない(写真の「円」参照)。生かされているという部分を忘れてしまっているのです――生かされて生きているのですが、あたかも自分だけが生きているように。
「生かされて生きているのです」
坐禅は生かされているところにもう一回帰るという、帰る形なのです。生命の基本に帰るということなのです。
しかし私たちは、家を忘れ、故郷を忘れています。『もう一回、故郷に帰ろう』というのが坐禅の形です」。
そして、ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハン師の詩を紹介してくれました(この詩は、島田啓介さんが、ご著書のなかで訳出されています)。
ブッダはあなたの中に居ます/ブッダは呼吸の仕方も優雅に歩む方法もご存じです/あなたが忘れていても、『ブッダよ、来てください』とお願いすれば、すぐに駆けつけてくださいます/待つ必要はありません
続けて、
ブッダに呼吸してもらい/ブッダに歩んでもらう/わたしが呼吸することはない/わたしが歩むこともない
ブッダが呼吸している/ブッダが歩んでいる/わたしは呼吸を楽しむだけ/わたしは歩みを楽しむだけ
ブッダは呼吸/ブッダは歩み/私は呼吸/わたしは歩み
「大事なのはこれらのことをちゃんと見届けないといけない。『生かされている』という、この円の下側を生きている、ということを。生きている私が、生かされている私をちゃんと見届けないといけないのです」。
生かされている事実。呼吸さえも自然の働きから立ちあがってくるという真実。私たちが呼吸しているのではない。すべて「ブッダ」にお任せの世界です。こうして、生かされている“私”に気づかされたワークショップでした。
バックナンバー「 ニュース・レポート」