日本仏教を形づくった僧侶たち

「親鸞」―仏教の根幹に立った「悪人正因」の信仰―

作家 武田鏡村
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六角堂の参籠から法然に師事した親鸞
念仏弾圧で流罪に遭っても
決然と越後に赴いた親鸞
妻の恵信尼と積極的に
関東布教を二十余年も行なった親鸞
悪人を往生の正因として、
多くの民衆を信仰的・社会的に解放した
善信房親鸞とは、
一体どんな人物だったのでしょうか―

             ©悟東あすか

比叡山で修行した後に

親鸞は、平安末期の承安3年(1173)に生まれています。親鸞の曾孫の覚如が書いた『親鸞伝絵』(『御伝鈔』)によれば、貴族の日野家の出身であるとされていますが、親鸞自身が自分の出自については何も語っておらず、また出身や身分などを誇ることは一切ありませんでしたので、不明ということにしておきます。

また、のちに天台座主となる慈円のもとで出家したといわれていますが、その歴史的な事実も確認することができません。慈円の実兄が関白となる九条兼実ですので、後世になると親鸞が結婚したのは兼実の娘の玉日姫といわれるようになりますが、そうした事実はありません。これらは親鸞を貴い出身とすることで、その教えの尊さを伝えようとしたものでしょう。しかし、親鸞が切り拓いた社会の底辺で生きる「悪人こそが救われる」とする教えでは、自分も含めた「われら悪人」といっていますから、貴族説をとることは親鸞の意志に背くことになります。

比叡山延暦寺・横川中堂(写真提供・比叡山延暦寺)

ただ比叡山で修行したことは確かで、『教行信証』などの著述には、浄土教の多くの経典が引用されていることでも裏づけられています。親鸞が修行したのは、比叡山の横川で、そこは浄土信仰が盛んに行なわれていたところです。
どのくらいの年月、比叡山で修行していたのかも分かっていませんが、29歳の建仁元年(1201)に、比叡山を下りて京都の六角堂に参籠したときに、聖徳太子の示現に導かれて、東山の吉水にいる法然を訪ねて門弟になります。
法然の専修念仏は、それまでの仏法では救いの対象から洩れていた多くの民衆が救済されると説いていたことから、老若男女の熱狂的な信仰を集めていました。このとき親鸞は、
「雑行を棄てて、本願に帰す」
としか語っていませんが、比叡山の修行を雑行として切り棄てて、法然が説く阿弥陀如来が衆生を一人漏らさずに救うと誓った「本願」の教えに立ったことを宣言しています。

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