インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)

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仏教瞑想の根本経典『大念処経』

Q3   日本テーラワーダ仏教協会のヴィパッサナー瞑想と、マインドフルネス瞑想法との違いはありますか。

協会の、というよりブッダの瞑想との違いですね。マインドフルネス瞑想に取り組む人の姿勢によって、近似したものにもなるし、縁遠いものにもなると思います。

マインドフルネス瞑想法は、基本的にカウンセリングや医療、自己啓発的なものとして実践されているようです。当協会のヴィパッサナー瞑想法と言えば、ブッダの説いた、念処(サティパッターナ)、サティの実践ですよね。それが、2600年前のお釈迦さまの時代から現代に至るまで連綿と受け継がれている。いま行われているマインドフルネス瞑想法も基本は同じです。両者は、観察モードになるという点では同じものです。

――医療の分野や、企業の社員教育に使われることについて、どのように思われますか。それは、どのような効果を生むのでしょうか。

仏教の文脈で言えば、「苦の滅尽」ということが説かれています。解脱・涅槃とも言いますが。苦の滅尽という究極のゴールに達する方法を説く『大念処経』のイントロダクションにはこうあります。

比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、憂いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりにみるための一道である。すなわちそれが四念処である。

要するに、涅槃を目の当たりに体験するための実践であると言っているので、一部を取り入れてやってもよい結果を得られると思います。

とくに医療の場合は、純粋に人助けの世界ですから、大いに取り入れてほしいと思います。問題があるとすれば、キャリアアップのためにとか、仕事の効率を上げるためにとか、世俗的な目的で行われる場合です。それはそれなりの結果しか得られないと思いますよ、欲の世界の話なので。欲の結果を得たいがために、欲を抑えるということですよね。

これも逆説的なことですけれど、欲の対象を得るためには欲を抑えなければならないんですよね。これは仏教心理学でいう面白いポイントなんですけど、欲望のまま突っ走ったら欲望の対象は得られない。欲望のために欲望を抑えなくちゃいけない。

それと同じで、マインドフルネスも、キャリアアップとか、能率アップとか、スキルアップとか、自我を満足させる目的の為に自我を抑えて、観察モードでやってみましょうということです。それなりに結果は得られるでしょうけど、それで終わりです。ちょっともったいないという感じはしますよね、仏教的な立場から見ると。

――坐禅(只管打坐)とマインドフルネス瞑想法の違いは何ですか。

スマナサーラ長老の受け売りなんですが、只管打坐になったら修行の完成です。でも只管打坐になれないから苦労しているのであって、「ゴールはここだ」と言われても、どうやって行ったらいいかわからない。だから、マインドフルネス瞑想法を実践したら結果としては只管打坐になります。修行は完成しますよ。

アルボムッレ・スマナサーラ長老

只管打坐というのは、言ってみれば、解脱・涅槃と同じことですから、只、坐る。なんの執着もなしに、只、ある “just being” という状態に達する。マインドフルネス瞑想でそこに達するのではないかと思います。テーラワーダ仏教的に言えば、只管打坐になったら本物なんで、マインドフルネス瞑想法すれば只管打坐に達しますよ、という説明になります。

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