インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)

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「暑い」「寒い」と言うとそこで主観が入ってイライラしたりとか、焦ったりとか、「暑いの嫌だな」「寒いの嫌だな」など、あるいは「ちょうど涼しいね」などと言うとき、主観と価値判断とそれに付随する感情が入ってくるじゃないですか。そうではなくて、身体に何か触れたら、それは「硬さ」、「熱」というふうに、あるいは動詞で「感じている」「感じている」というふうに実況中継するのです。

あるいは何かを眼で見ているときに、仏教では、眼に触れるものは色と形(パーリ語ではひと言でルーパと言います)でとらえますが、単純にルーパとして、対象を認識するのはなかなか難しいので、「見えている、見えている」というふうに実況する。そうするとただ見えているだけで、――そこから現れてくる膨大な価値判断の世界からちょっと離れることができるのです。

皿を洗うと言っても、それはいくつかの動作の組み合わせでしかなくて、それをひっくるめて「洗う」と言っているまでです。そこはもっと細かく分けて、ただ手を「動かします」とか「回します」とか、日常動作の場合は、あまり分解すると、逆にややこしくなって難しいのですが、なるべく主観が入らないように、価値に絡めとられないようにシンプルな動詞で実況してゆく。

それによって何が起こるでしょうか。われわれは常に「わたし」が何かをやっていると認識しています。価値という名の煩悩に彩られた、さまざまな概念で合成されたカラクリの世界で、「わたし」が何かやって生きているんだと。そういう自我の錯覚を中心とした認識過程がオートモードで回転している働きを中和させるというか、そこから離れてみる。そういうカラクリを含めて観察する、観察モードに入るのです。

観察モードに入ると、これまで必死になって演じてきた「わたし」劇場の舞台裏がぜんぶ見えてしまって、「なんだこれは」と、とことん呆れちゃうんですね。価値の世界がきれいさっぱり消えてしまう。それで解脱に達します。ただし、「どこまで本気で呆れられるか」というレベルに応じて、解脱の段階論(四沙門果)も成り立つわけですが。ラベリングとか、実況中継とかいうことが強調されている裏には、そういう修行完成に至る実践的な意味があるのです。

ラベリングを使わず、他のやり方をしている指導者にも、自我意識を解体する工夫、妄想に飲み込まれないための工夫はあるはずですが、それはそれぞれの指導者に訊かないとわからないことでしょう。

佐藤哲朗(さとう・てつろう)

佐藤哲朗(さとう てつろう)
1972年、東京都生まれ。東洋大二部文学部印度哲学科卒業。ライター・雑誌編集者などを経て2003年から日本テーラワーダ仏教協会事務局長を経て現・編集局長。インターネットを通じた伝道活動、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著作編集などを担当。単著は『大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史』『日本「再仏教化」宣言!』サンガ。共著に『日本宗教史のキーワード』慶應義塾大学出版会などがある。
原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話
著者:アルボムッレ・スマナサーラ
出版社:佼成出版社
定価:本体1,100円+税
発行日:2003年10月
原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟
著者:アルボムッレ・スマナサーラ
出版社:佼成出版社
定価:本体1,100円+税
発行日:2005年11月
原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章
著者:アルボムッレ・スマナサーラ
出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発行日:2009年6月
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