日本仏教を形づくった僧侶たち

「法然」-極楽往生を民衆に導いた念仏僧-

作家 武田鏡村
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父親を殺した敵から逃れて出家した法然
比叡山延暦寺で30年間も修学した法然
誰でもが極楽往生できる念仏信仰を説いた法然
専修念仏で民衆を救い、法難に遭いながらも浄土宗を開いた法然房源空とは、一体どんな人物だったのでしょうか

法然

            ©悟東あすか

十代で隠棲する中で

法然房源空は、平清盛の父親の忠盛が、ひそかに中国宋との貿易で財力を蓄えはじめた長承(ちょうしょう)2年(1133)に美作(みまさか)・岡山県北部に生まれました。
法然の父は土豪でしたが所領をめぐる争いで、一族の皆殺しを図る敵に夜襲をかけられて亡くなっています。生き残ったのは、9歳の法然と母親だけでした。

敵からの追跡を逃れるために法然は、母親の弟の観覚が院主になっていた那岐山菩提寺に預けられました。
4年ほど菩提寺にいた法然ですが、観覚は匿いきれないとみたのか、
「あだ討などの怨念を一切忘れて、比叡山に登れ。それが亡き父を弔う道だ。西塔北谷にいる源光を頼るがよい」
といって、源光宛の書状を渡しました。そこには「進上、大聖文殊像一体」と書かれていました。

法然は智慧の象徴の文殊菩薩に喩えられたのですが、その心は力のない弱い者がもつ悲哀に満ちていたのです。その心が社会的な弱者でも極楽浄土に往生できると説く念仏門を叩くことになったのでした。

2年ほど源光のもとにいた法然は、東塔西谷の皇円を戒師として出家しました。皇円は法然の聡明さを認めて、「このまま修行すれば、天台座主にもなれよう」といいましたが、貴族出身でないために天台宗の最高の地位につくことは不可能なことです。
わずか3年で皇円のもとを去った法然は、西塔の黒谷にいる叡空の門に入ります。黒谷は比叡山での出世を諦めた僧や、学生(がくしょう)と堂僧の騒擾(そうじょう)を嫌って、静かに経典を読み、念仏する僧の隠棲地でした。

わずか18歳で黒谷に隠棲した法然は、経典を読みあさって、その才覚を表わしてきました。朝廷を二分して戦った保元の乱の年(1156)、24歳の法然は、南都(奈良)にある浄土教の奥義を学ぶために遊学します。寺領などの勢力争いで対立する比叡山と南都仏教は、ことあるごとにいがみ合っていました。
そのため法然は、南都仏教の影響もある嵯峨にある清涼寺(釈迦堂)に参籠した後に、南都に向かっています。法然には、こうした用意周到な一面がありました。

法然が南都にどのくらい滞在していたかは分かっていませんが、再び黒谷に戻ったことを考えれば、比叡山に決別したわけではありません。
おそらく天台浄土教をおぎなうものを南都浄土教に求め、日本の浄土教の大成をはかろうとする青雲の志があったのでしょう。

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