インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編

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――なんだか、深刻な話に思えてきました。そういうことになると、感覚から自我の錯覚と渇愛が生じるのは必然というか、何をしても止められないような気がするのですが……。

止められますよ。ヴィパッサナー瞑想というのは、そのためにある修行法なんです。要するに「感覚のところで止める」っていう訓練なんですね。気づき(sati)を駆使して、「感じて、放っておく」。感じて、そこから普通なら「自我の錯覚」と「渇愛」を作るんですよ、われわれは。

そこで敢えて、感じて、そこに気づきを入れて、それで終わり。「放っておく」ということをすることによって、自動的に起こってしまう制御不能な煩悩・渇愛(ほとんど同義語なので煩悩と言ったり、渇愛と言ったりしますけど)のパターンを止めてみるんですね。敢えて、観察モードで生きることで、感覚から渇愛が生じる生命の認識のオートモードを邪魔するんです。

もっとも、渇愛とは感じたら瞬時に沸き起こるものなので、感覚のところで完全にガードするのは難しいです。でもそこで挫けることなく、渇愛がどのように起きて、どのように消えていくのか、ということにも、すかさず気づき(sati)を入れるんです。

そうやって感覚から渇愛に進まない、感覚のところでストップする訓練を続けていくことで、渇愛が生じるプロセス、生じた渇愛が滅するプロセス、渇愛が生じては滅するプロセス、そういった因果関係を、ありありと発見するんです。それは各自で発見しなくてはいけないんです。

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