インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(4)最終回

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ゴータミー精舎釈尊坐像の傍らにはべる寺猫サーリー

Q2 いわゆる「ブッダの瞑想法」と呼ばれる修行法には、ヴィパッサナー瞑想の他には、どんな種類があるのでしょうか。

テーラワーダ仏教では、サマタ瞑想(集中瞑想)に分類される、ヴィパッサナーの観察瞑想以外の瞑想(カンマッターナ 業処)は、38とか40種類あります。基本的には、瞑想を知っている先生が、生徒の資質を見て、「あなたは、これをやりなさい」と指示を出してやらせるものです。自分の好き勝手にやることは、通常、あり得ません。

瞑想会を訪ねてくる人の中には、「私に『不浄の瞑想』を教えて下さい」とか「何々の瞑想法を教えてください」などという人もいますが、本来それは指導者が決めることです。実際、自分で決めた瞑想法がその人にあっているかどうかは、指導者がよく吟味しないとわからないのです。「これをやりたい」というのは、自我意識や見栄がそう言わせている可能性もありますからね。そもそも、サマタ瞑想など、特別なことをやる必要があるかどうかもわかりません。また瞑想によっては、隔離された環境でないとできないものもありますから。

ただ、そういった38とか40種類ある瞑想の中で、総合的に誰でも実践すべきものがあります。それがすべての生命への友情の気持ち(メッター、慈)を育てる「慈悲の瞑想」(慈随念)なのです。経典では慈・悲・喜・捨の四無量心(しむりょうしん)の修習と呼ばれている瞑想にあたります。それと「死の瞑想」(死随念)。加えて「不浄観」という「不浄の瞑想」(不浄随念)が入る場合もあります。

「不浄の瞑想」とは、要するに、身体を汚いものとしてみる瞑想です。私たちは身体に対する執着がものすごいので、常に、身体のことで頭がいっぱいの状態です。それは、身体に非常に高い価値を置いていることに他なりません。その価値を相対化してみようという実践ですね。

「不浄」と言うとき一般的には、きれい、汚いという二極から見てしまいがちですが、「不浄の瞑想」の狙いは、私たちが身体に入れている価値そのものを落としていくことなのです。身体に対する過剰な思い入れから解放されることですね。価値があると思っているから執着するのであって、価値などないと思えば執着しないで済みます。

ただ、指導者なしに一人で実践し易いのは、「慈悲の瞑想」なんです。「不浄の瞑想」だと、やはり自分の中で妄想を膨らませて、不浄だ、身体は汚い、などと強く妄想し始めるとノイローゼになる危険も完全には否定できませんね。

 

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