インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(4)最終回

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わたしに悟りの光が現れますように

――瞑想を実践して、ノイローゼになる危険性もあるのですか。怖いですね。

まぁ、そんなに怖がる必要はないと思いますけど。これは裏話的なお話ですが、仏典にはお釈迦様が若い比丘たちに「不浄の瞑想」を教えたときのエピソードが伝えられています。

お釈迦様は「不浄の瞑想」を教えおわると、比丘たちに引き続き実習するように指示して、半月間、森で禅定に入りました。残された比丘たちは、不浄の瞑想を修し過ぎて、生きることに悲観的になってしまいました。彼らは自分の身体を厭い、恥じ、嫌悪して、ついには自ら命を絶ち、また互いに殺し合ったりという、惨事を招いてしまったのです。お釈迦様が禅定から戻って来られると、多くの比丘は死に絶え、道場は閑散となっていました。アーナンダ尊者から事情をお聞きになり、他の瞑想法の指導を乞われたお釈迦様は、呼吸観察の瞑想を指導したと伝えられています。一応、相応部経典や律蔵に記録されているので、本当にあった話だろうと思います。

これはあまりにも極端な話ですが、独習しても100%大丈夫なものとなると、やはり、「慈悲の瞑想」をお薦めしたいと思います。お釈迦さまも、仏教徒ではないバラモンたちや他の在家の人達と対話をして、教えをプレゼンテーションする時は、大体、「慈悲の瞑想」を薦めているのです。宗教や思想信条に関わりなく、人間であるならばぜひ慈悲の瞑想をしてください、というお気持ちだったのだと思います。

この瞑想は、自分で自分を大切に思う気持ちを確認するところから始めて――ある意味で、自己肯定ですね――周りの人々や生命に親愛の気持ちを拡げて、さらに知らない人々や生命、あとは自分の嫌いな人々や生命、自分を嫌っている人々や生命、そういったあらゆる対象に対して、「生命であるならば幸せであってほしい。生命であるならば私の友達なのだ」という気持ちを育てていくんです。

そういう気持ちをどんどん、無限の拡がりを持った心にまで育てていく。始まりは「自分は、自分を好きです。私は幸せになりたいと願っています」という原点から実践していくのですが、幸せを願う対象(生命)をどこまでも拡げていくと、結局、「一切衆生」というスケールまで友情の気持ちが拡がっていくのです。これを無量心と言います。すると、自分が消えてしまう。「自我」という枠、卵の殻のようなものが破れて、自他の境目がなくなってしまう。そこで「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の幻覚が醒めて、「無我」という真理に達するのですね。

ただし、そこまで達するのは、仏教の無常・苦・無我というアイデアがしっかり頭に入っている仏教徒だけともされていますが。仏教に興味ない人が慈悲の瞑想をしたら、すべての生命との一体感、宇宙との合一といったところで終わります。それでも、我他彼此(がたぴし)といがみ合う俗世間のレベルと比べれば、素晴らしい境地ですけど。

 

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