生きとし生けるものが幸せでありますように
――やり易いのは「慈悲の瞑想」と、それから「死の瞑想」ですね。
なぜ「慈悲の瞑想」がやり易いかと言うと、「私が/生きとし生けるものが幸せでありますように」と、私とか、生命という観念を認めた上で実践がなされるからです。自我の錯覚、生命という働きを徹底して分析していく他の仏道とは、ちょっとアプローチが異なるんですね。この瞑想は、誰もが関係のある「生命」に対して、やさしい気持ちを作る訓練なので、とりわけ宗教的な関心がない人でもやり易いでしょう。「慈悲の瞑想」に関しては、スマナサーラ長老も本を書いていますし、簡単なやり方も紹介されています。そういうものを実践するのが良いと思います。
「死の瞑想」に関しても、誤解はしにくいと思います。自分、そして他の生命も必ず死ぬ存在なのだ、死ということからは逃れられないのだ、と常に自覚して念じる実践です。それと同時に、今、自分はさまざまなものに依存して生きているけれど、すべてを捨てて、死に赴かなければならない、逝かなくてはならない、ということを常に自分の心に言い聞かせる。パーリ語で、「Sabbaṃ pahāya gantabbaṃ サッバン パハーヤ ガンタッバン」というフレーズもあります。「すべてを捨てて逝かなくてはならない」という意味です。
そのフレーズを自分自身に言い聞かせるとともに、観察モードにもなるよう、自問自答するのです――自分の子供とか、自分の家とか、自分の財産とか、妻とか、肩書きとか、今、それらはあるけれども、死後も持っていけるものなのか? もちろん持っていけはしません。強いて言うならば、持っていくものは、自分の業ですよね。業というのは「おこない」です。自分の行為の結果を自分が持っていくだけ、ということです。
このように、「慈悲の瞑想」と「死の瞑想」というのは、やり易いし、自己観察にもなって、智慧の開発に繋がるものです。この二つを合わせて実践したら非常に良いと思います。これは私の好みで言っているわけではなくて、テーラワーダ仏教で権威とされる『清浄道論』にもそう書いてありますからね。
「慈悲の瞑想」についてもう一言つけ加えるならば、世の中を客観的に観察すれば、輪廻を解脱する、涅槃に達するという仏教のゴールに興味がある人は少数派です。やはり大多数の人間は輪廻の世界に未練があるし、輪廻のなかで幸福を求めているんです。ブッダは解脱・涅槃を説いたからといって、そういう大多数の人々を無視していいはずはありません。「慈悲の瞑想」は、ひとりでも多くの生命に幸福を体験してほしい、というお釈迦さまの大いなる慈しみ(大悲)が形になった瞑想なのだと思います。
バックナンバー「 インタビュー」