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最澄の瞑目つづく冬の畦 宇佐美魚目
比叡山延暦寺の根本中堂に入って、平安時代に最澄が灯した「不滅の法灯」を見ると、最澄の教えは連綿と現在まで続いているのだと実感します。比叡山から下りてきて、作者は、稲を刈り取ったあとそのままにしてある冬田の畦に立って、しばらくもの思いにふけっていると、心の深くから最澄の瞑目している姿が、浮かび上がってきたのではないでしょうか。確かに、絵や彫刻に描かれた最澄像は、手を定印に結び、結跏趺坐して静かに目を瞑っておりますよね。
この心のなかから浮かび上がってきたものを掬い取るという感覚は、自分の知らない自己に気づくことなのかもしれません。平安時代から今も続いている最澄の瞑目と、「いま」ここに佇んでいる作者の瞑想とが重なって見えてきます。
最澄の書に息あはせ息白し 宇佐美魚目
最澄の書には「久隔帖」などがありますが、作者は、最澄の書を手本として臨書しているのでしょう。最澄の文字に現われた緩急や墨つぎによって最澄の呼吸を体験しているのです。そして、最澄の呼吸と自分の呼吸を合わせていっているのです。その息が冬の寒さで白いのです。
雪吊や旅信を書くに水二滴 宇佐美魚目
松など大きな木が雪で折れないように縄を放射状に張ったものが雪吊です。金沢の兼六園が有名ですが、作者も金沢を旅したのでしょうか。旅先で手紙を書こうと思い、水を入れてある陶器の水滴から、硯に水を二滴ほど注いで墨を磨ったのです。この「水二滴」で、ちょっとした短い手紙であることが想像されます。何を書いたのでしょうかね。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
花神コレクション〔俳句〕宇佐見魚目
出版社:花神社
定価:本体1,500円+税
発行日:1994年12月25日