――オウムの事件が起きて、どのような影響が出ましたか。
書店で言えば、同じ「精神世界」のコーナーにあるオウム真理教ですよ。そこに、いきなりオウム真理教事件です。その影響は計り知れないくらい大きかった。
まず、瞑想ということが警戒視されました。それとヨーガ。ヨーガを実践する時、最後に「オウム」のマントラ(真言)を唱えて締めくくることが多いのですが、そのマントラが使えない。「オウム」という言葉自体がダメなんですから。家族の反対でヨーガはやめさせられる。当時、続けていたヨーガを辞めた人も多かったのではないでしょうか。ヨーガ一つをとっても、それほど社会的影響は大きかったのです。
そんなことで受難の初来日と言ってもよいのですが、来日してみると、“ちゃんとしたお坊さん”のわけです、ティク・ナット・ハンは。いわゆる安全な形であらわれた――オウム服のような衣装ではなく、髭も生やさずにちゃんとしたお坊さんでしたから。ですから外に向かっても、「仏教の話だよ」ということで行えたのです。
――マスコミの反応はいかがでしたか。
マスコミの反応は薄かったですね。やはり外国から導入された変わったメディテーション、仏教というよりメディテーションという感じなので、オウムの事件が起こったら取り上げづらいでしょう。どう取り上げたらいいかわからなかったと思いますよ。
――メディテーションの色彩が、印象的に濃いということは、ティク・ナット・ハン師が唱えるエンゲイジド・ブディズム(社会参加型仏教)より、スピリチュアルな宗教家、メディテーションの指導者としての側面が、当時は強かったのでしょうか。
僕らの多くもエンゲイジド・ブディズムという切り口では捉えていませんでした。でも、ティク・ナット・ハンの教えは「社会的なアプローチは大切です。自分の内にこもって、自身の心の安寧だけを求めるのではなく、周りを見てください。苦しんでいる人たちもいるし、社会的な問題もたくさんあるでしょう。瞑想をやりながら、ちゃんと社会と関わってください」。そういうものでした。そのためにサンガをつくって、「皆さん一緒に瞑想して、一緒に働きましょう」というのが、そもそもの教えなわけですよ。
――それがプラムヴィレッジなのですね。
その通りです。マインドフルネスがこれだけ拡まったのも、いわゆるプラムヴィレッジのスタイルが強く影響しているのは確かです。彼らはベトナム戦争当時から積極的に世界のあらゆる分野に出て行って働いていました。そしてベトナムからヨーロッパに亡命してからも、学校やら刑務所などさまざまな場所に行って瞑想の仕方を指導してきたのです。そういう形のスタイルを日本人にも広めようとティク・ナット・ハンは来日したのです。
しかし当時は、震災、オウム事件ということで、それどころではないという社会的背景がありました。残念ながら社会的に、タイミング的に困難な状況でした。ですからオウムの事件さえなければ、だいぶ状況は違ったと思います。マインドフルネスが日本に伝わる時期も、おそらくもっと早く来たのではないかと思います。
――今や仏教界では当たり前になったマインドフルネスですが、その黎明期には、たいへんなご苦労があったのですね。ところで、マインドフルネスという言葉ですが、当時はどのくらい認知されていたのでしょうか。次回では、マインドフルネス、それが「気づき」と邦訳された経緯などについて伺いたいと思います。
国内のティク・ナット・ハン瞑想会や出版情報は、『ティク・ナット・ハン マインドフルネスの教え』を参照
南部ボルドー地方に仏教僧院・瞑想センターである「プラムヴィレッジ」を創立。在家の瞑想実践者を含めて世界中から多くの参加者を集め、日々の生活の中のマインドフルネス、平和の創造、共同体形成、社会奉仕活動の指導・実践を行っている。
現在700名を超える僧侶を中心に、世界中にプラムヴィレッジの僧院・瞑想センターが設立され、自主的な瞑想会の集まり(サンガ)も数百を数える。1995年には来日し、3週間にわたって全国ツアーを行った。現在日本国内の定期的な瞑想実践会は十数か所。邦訳書は30冊を超える。
21世紀に入るととくに、「応用仏教Applied Buddhism」の名のもとに、アメリカ連邦議会、ユネスコ本部などの国際機関、グーグル本社などの多国籍企業、教育機関、刑務所、医療施設などでひろく講演・リトリートを行い、世界的にマインドフルネスが広まるきっかけになった。
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