インタビュー

ティク・ナット・ハン「マインドフルネス」が上陸した日 その3

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ティク・ナット・ハン師との出会いについて語る島田さん

そういう形で障害ではなく病気なんだから、退院したら自分でやりなさい、ということなんですけれども、精神病というのはそう簡単に快癒するケースは少ないですから。やはり社会に適応していく訓練が必要だったり――この10年ほど僕らはやっていますけれども、仲間が集まって自助グループを作っています。そういう形で仲間の支えがあったり行き場所があったり、いろんな筋道や選択肢が用意されて、ようやく社会の中に身の置き所を見つけていくことができるのです。

だけれども、それらが一切ない状態では社会に出たくても、とくに症状が重かったり長期にわたって入院していたりすると、非常に困難です。退院後のぼくはそういう状況からスタートしました。何の取っかかりもないという状態です。そうした中でティク・ナット・ハンに出会った。そのあと、中米を歩くピースウォークをやってみたり、いつまでも薬だけ飲んでいてもはかばかしくないから、ヨーガをやってみたり、瞑想をやったり、マクロビ(食養法)をやってみたり、野口整体をやってみたり……。

70年、80年代、杉並区の西荻窪にホビット村という場所があり、今も続いています。ご多分に漏れず僕も行きました。僕は中央線四谷駅にある上智大学に通っていたのですが、大学にいられないから、ぶらぶらしている時には電車一本で行けるホビット村にもよく行った。そこは有機野菜の八百屋や自然食レストランなどがある、いわゆるオルタナティブな拠点の草分けで、三階にある「プラサード書店(現ナワプラサード書店)」は、店全体が精神世界の本屋なんです。今、高橋ゆりこさんという友達が店主をやってますけれども、その当時は、槙田きこりさんという方が店主をやっていました。

ぼくから見ると、ドロップアウトしたような連中が集まっていました。そこでは、彼らを仲間のように感じて非常に安心できたんです。ぼくも、詩人の山尾三省という、大先輩ですが、彼と親しくなってくっついて歩いていたりしていた。そうした出会いから、お話ししたような、いろんな回復方法を自分で試していくわけです。

その後仕事として選んだのが木工職人になる道なのですが、そのお話は次回にしたいと思います。

国内のティク・ナット・ハン瞑想会や出版情報は、『ティク・ナット・ハン マインドフルネスの教え』を参照

https://www.tnhjapan.org/

島田啓介 しまだ・けいすけ
1958年、群馬県生まれ。精神保健福祉士(PSW)・カウンセラー、翻訳家、大学講師、ワークショップハウス「ゆとり家」主宰。1995年のティク・ナット・ハン来日ツアーの世話役の一人。マインドフルネスをテーマにした瞑想会、講演、研修、講座などを各地で行なう。翻訳書や雑誌等への執筆多数。ティク・ナット・ハンの翻訳に『ブッダの幸せの瞑想 マインドフルネスを生きる─ティク・ナット・ハンが伝えるプラムヴィレッジの実践』(共訳)『今このとき、すばらしいこのとき Present MomentWonderful Moment 毎日が輝くマインドフルネスのことば』(以上、サンガ)、ほかがある。来年2月には、『ティク・ナット・ハン詩集(仮)』発刊の予定。
ティク・ナット・ハン(釈一行)
1926年ベトナム中部生まれ。禅僧、詩人、人権活動家、学者。ベトナム臨済禅(竹林派・柳館派)の法嗣であり仏教界で中心的な地位を占めながら、ベトナム戦争中和平をうったえる活動の結果、国を追われフランスに亡命。1967年には、親交の深かったキング牧師からノーベル平和賞に推薦された。
南部ボルドー地方に仏教僧院・瞑想センターである「プラムヴィレッジ」を創立。在家の瞑想実践者を含めて世界中から多くの参加者を集め、日々の生活の中のマインドフルネス、平和の創造、共同体形成、社会奉仕活動の指導・実践を行っている。
現在700名を超える僧侶を中心に、世界中にプラムヴィレッジの僧院・瞑想センターが設立され、自主的な瞑想会の集まり(サンガ)も数百を数える。1995年には来日し、3週間にわたって全国ツアーを行った。現在日本国内の定期的な瞑想実践会は十数か所。邦訳書は30冊を超える。
21世紀に入るととくに、「応用仏教Applied Buddhism」の名のもとに、アメリカ連邦議会、ユネスコ本部などの国際機関、グーグル本社などの多国籍企業、教育機関、刑務所、医療施設などでひろく講演・リトリートを行い、世界的にマインドフルネスが広まるきっかけになった。
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