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初夢のなかをどんなに走つたやら 飯島晴子
みなさんはどんな初夢を見たのかな。初夢は今年の吉凶を占うとされていますよね。この作者はひたすら走ったという夢を見たのです。何かに追われて走ったのでしょうか。そんな恐怖感があります。夢のなかの無意識の世界で起こったことも俳句になってしまうのです。走り続けたあとにハッとして目が覚めたのです。
豆ごときでは出て行かぬ鬱の鬼 飯島晴子
節分の夜に「福は内、鬼を外」と言って豆を撒きますよね。そんな豆ごときでは、自分の身のなかの鬱という鬼はなかなか出ていかないというのであります。自分の心の有り様を客観的に見つめ、その気づきを俳句にしております。
さつきから夕立の端にゐるらしき 飯島晴子
郊外を歩いていますと、向こうの方では黒雲が立ちザーッと夕立が降っている様子がうかがえます。今、自分が歩いている所では、雨が降ったり、日が差したりしていて、どうも夕立の端にいるようだと気づいたのであります。それをそのまま素直に詠んでおりますが、夕立の「端」という言葉が一句を立たせております。
作者は、「自分の顔や姿も鏡の平面で知るしかない。声も直接自分の耳で聞けないとすれば、自分の心や精神や内面といわれる形のない曖昧なものを自分で知ることなどできそうにない」と言います。そして、「現在の自分の一瞬をとりあえず一句にみることができれば、それで十分なのであろう。」と述べております。
つまり、出来た一句に、自分の現在の姿を見るのであります。それは、今まで知らなかった自分の姿に出会うことなのかもしれません。 すなわち、「気づき」なのであります。
わが闇のいづくに据ゑむ鏡餅 飯島晴子
葛の花来るなと言つたではないか 飯島晴子
俳句は、心の闇を裂いてゆく光なのかもしれないのだ。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
出版社:富士見書房
定価:本体5,000円+税
発行日:2002年6月