インタビュー

ティク・ナット・ハン「マインドフルネス」が上陸した日 その4

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——ところで「〈自分〉という重荷を下ろす」ということですが、それは自分の意思、努力でできるものなのでしょうか? 心は自分でどうにかできるものなのでしょうか。

瞑想とか、木工職人の経験から、「心を忘れる」ということが私のテーマだとわかってきたので、悩んでいる心をどうにかするのではなくて、心を忘れることなんだ、と思い定めたわけです。そこら辺が「〈私〉という重荷を下ろす」と言うこととまさにバッチリ結びついているのです。というのは、長年あれこれと心をいじってもどうにもならなかったからです。

それよりも心を忘れるということが肝心だと。カンナがけしていると、その間だけでも心を忘れることができました。注意深さは欠かせません。だけれども、それは〈私〉が注意深くいる必要はないんです。非常に注意深いけれども「〈私〉がこれをやってるんだ」と思ったら、むしろ失敗します。いわゆる職人には〝心〟はいりません。心よりも仕事をやるのが職人だから。本来職人は、仕事をきちんとこなすことが役割だから、一般に思われているように、心とかあまり言うことはないのです。

そういった職人仕事をやって、インドに行くなどして旅する時間も長くなり、病気にかまっている暇はなくなりました。日本と違いインドでは、路上で倒れていても、誰もかまってはくれません。無関心なわけです。放っておいてくれるのです。それがよかったのです。

島田さんもバックパッカーとして旅をされたインド

ふだん少しでも具合が悪かったりすると、いろいろ心配をされたり、かまわれたりしますね。ぼくの場合は長年病気の状態が続いたので、心配されるこちらも気を遣うし、症状も期待するほど改善しないので申し訳なくもなる。意識しすぎてそれに疲れてしまっていたということもありました。さらに、自分自身も心に関心を持ちすぎていました。心というのは、それほどかまってやる必要があるのか。と言うか、たとえるなら、あまりにもかまってやるものだから、心が甘えてしまって、ちょっとでも苦しいと、大げさに「苦しい」と言い出すんではないか——そんな感じです。

心なんかよりも、もっとやるべきことがあるだろう。木工職人として、あるいは旅をしていて、その日、その日を生きていくこと。そういうことの中に身を投じているうちに、心のことを忘れていきました。当然、症状は良くなってきます。というか、症状があってもそれほど気にならない感じになってくる。自分がかまってあげないので、そうすると自然なところに収まるという感じなのです。

ちょうどいいところに収まると言いましょうか。体験から思うのは、東洋的なケアの仕方というのはちょうどいいところに戻してやることではないか。かまい過ぎず、ほったからしにもせず、ちょうどいいところに置いてやるみたいな感じです。そうしたら自ずからちょうどいいところに心は収まるだろう。僕の場合は、ちょうどいいところにそのように収ってきたわけです。もちろん悩みもあるし、症状もある程度あるのだけれども、ちょうどいい状態になってきました。

このところもありがたいことに、ちょうどいい状態が続いています。そうなると、「どんな状態であってもそれがちょうどいい」具合になってきます。これがまさにマインドフルネスと結びついてくるのですが、〈私〉というのを忘れて、何もかもちょうどいいという状態で自分を見守りつつ、いい塩梅[あんばい]にほうっておいてあげると、自然にその位置に収まり続けながら変遷していくわけです。諸行無常だからつねに変化していく。それをその都度ただ受け止め続けていくのがマインドフルネス=慈悲に満ちた見守りの眼差しなんです。

ですから、呼吸をしてマジックのように、「楽になれ、楽になれ」「お、楽になってきた、楽になってきた」。次には、また苦しくなってきた。「では、マインドフルネスをやろう」というものとは違います。

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