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「苦しみを抱えた人とともにいること」藤野正寛さん Zen 2.0レポート(3)

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「苦」こそ学びのチャンス

ゴータマ・ブッダの教えに「四聖諦」、四つの聖なる真理があります。これは言うまでもなく仏教の基本であり、仏教史の中で一番尊ばれるべき理念と言ってよいでしょう。

1.生きることそのものが「苦」である
2.「苦」には「苦の原因」がある
3.「苦の原因」が滅すれば「苦」も滅する
4.「苦の原因」が滅するための智慧がある

そして、この4番目の「苦の原因」が滅するための“智慧”とは何でしょうか。

それは、仏教の旗印である自然の摂理、すなわち「無常」「無我」「(一切皆)苦」を理解することです。そして、その理解には、聞いて得られた理解(聞)、考えて得られた理解(思)、修行によって体験して得られた理解(修)の3つの種類がありますが、とくに3つ目の体験による徹底した理解が重要となっています。


さて、私たちは、日頃「死」を無意識においやって生きています。なぜなら、自分が死んでしまうのではないかと考え始めると、仕事の邪魔、勉強の邪魔になり、死の恐怖で何も手がつかなくなったりするからです。そうやって「死」を無意識においやることで、次の呼吸は間違いなく生じてくるものとして、明日は来るものとして生きていくことができます。それによって、自分は、昨日も今日も明日も首尾一貫して変わらぬ確固とした存在だという「自己観」や、その自分を思い通りにコントロールできるという「自己観」が立ち現れてきて、その中で生きるようになります。

ですが、このように作り上げられた「自分は変化しない」「自分のことは思い通りになる」といった「自己観」と、変化し続けるという「無常」や感覚や感情や思考は思い通りにはならないという「無我」、すなわち「自然の摂理」の間には大きなギャップがあります。このギャップが不満足という「苦」のかたちを取って私たちを苦しめているのです。

ここで大切なことは、この「四聖諦」の中には学びの過程が組み込まれているということです。小さい苦、例えばかゆみに出会って、そのかゆみを使って、それが生じては消えて行くもので、自分で思い通りにならないのに、そのことにイライラして不満足を生じさせ続けているということを体験的に理解することで智慧が生じるのです。そうすると、次に似たような感覚が生じてもありのままに受け入れることができるようになります。そして、さらに深いレヴェルの苦とも向き合い、それを使ってさらに成長することができる。「苦」こそ、大切な学びの機会なのです。大いなる学びのチャンスなのです。

そしてすべての人が、最終的に自分の死と向き合わなければなりません。これは「無常」「無我」「苦」の一番大きなあらわれなのです。これが立ち現れてきたときに、穏やかにそれを受け止められるように、今、私たちの前にいろいろな苦が現れて、育ててくれているのです。

「苦」は肩代わりできません。だから、ジョン・D.ダンが言うように、

――慈悲によって、他者の「苦」を直接取り除くことはできない

のです。

自分自身の修行によって、体験的に「自己観」を変えていくことによって初めて、自然の摂理とのギャップが埋まり、苦が減していく。もちろん、周りの人が苦と向き合うために、空腹を満たしてあげたり、部屋を整えてあげたりすることはできます。しかし、私たちが横から何を言っても、その苦は減らすことはできないのです。

繰り返しますが、「苦」は自分で体験してそれらを取り除いていくしかないのです、と強調する藤野さん。

――慈悲とは、人が「苦」を十分に体験することができるような見守りの環境を提供することだ

この言葉には、そのような意味と理由があるのです。
私が、幼馴染みの友人に伝えたかったことはそれなのです、と。

(藤野さんのお話は次回へ続きます)

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