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「苦しみを抱えた人とともにいること」藤野正寛さん Zen 2.0レポート(4)

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修行者の陥り易い「罠」

さて、いよいよお話は究竟に入ります。

自身による自身への「慈悲の方向づけ」。つまり、自分自身で慈悲を育んでいくときに、方向を間違わずに行うためには何が必要か。そのことへの提言が最後に為されました。

仏教の慈悲は、実は慈・悲・喜・捨の四つから構成されています。仏教ではこれを「四無量心」と呼んでいます。

慈:生きとし生けるものの安らぎを願う心
悲:生きとし生けるものの苦しみが和らぐことを願う心
喜:生きとし生けるものの喜びを共に喜ぶ心
捨:偏りのない平静な心

しかし、これには、似て非なるものが存在します。これが、修行者にとっての「罠」です。

この場合、間違って正反対のものを育む危険性は低いと言って良いでしょう。
しかし「似て非なるもの」に関しては、注意が必要です。自分のパートナーの安らぎを願っているつもりで、自分自身の愛欲や執着を育んでしまっていることがあるのです。

そして、このとき正誤を判断するのは自分自身であり、その指標となる判断基準の一つは身体感覚だ、と藤野さんは言います。
「眼耳鼻舌身意」の感覚器官に外部、内部の刺激が接触すると身体感覚が生まれます。

この内部から出てくる感覚で「快・不快」が決定されると言います。例えば、黒板を引っ掻く音を耳で聞いても、映像を目で見ても、イメージを思い浮かべても身体にはぞわっとした身体感覚が生じます。

マインドフルネス瞑想を実践すればするほど、自分の中の身体感覚へより気づきやすくなります。そして、慈悲の言葉やイメージを思い浮かべた時に自分の身体の中に生じる身体感覚に気づくことができ、その身体感覚を用いて、自分が何を育んでいるかを判断できるようになるのです。ですから、コンパッション(慈悲)だけではなく、マインドフルネス瞑想を大切にし、実践を繰り返し重ねなければなりません。藤野さんは、繰り返し続けて行く必要があるという意味では、「瞑想実践」は、語学学習に似ていると言われていました。

そうして深いレヴェルで身体感覚を観察ができるようになって、自分自身で「慈悲の方向づけ」をして、「本当にこの方向で合っているだろうか」と反芻、判断しながら、「どうも不快な感覚がある。エゴイスティックな強い感覚がある」。そう思ったら、少し立ち止まって慈悲の言葉やイメージや思いを調整してみる。

それが上手くいかなかったら、ブッダの徳や行動を思い出してみたり(ブッダ・プライミング)することも大切だ。藤野さんは、最後にそう結んでくれました。

(Zen2.0のレポートは次回へ続きます)

*1 「二本目の箭(矢)を受けない」――相応部経典(サンユッタニカーヤ)六処篇 第二受相応 第一有偈の章 第六「矢経」には、「第二の矢」の語が見られ、それを「受(ヴェーダナー)」という認識作用との接触から生じる感覚の視点から解説している。

片山一良『パーリ仏典〈第3期〉8 相応部(サンユッタニカーヤ)六処篇Ⅱ』(大蔵出版)pp. 45-50から一部抜粋

このように私は聞いた――
世尊はつぎのように言われた。
「比丘たちよ、聞をそなえていない凡夫(*「ブッダの教えを護持していない凡夫」というほどの意〈編集部注〉)は、楽受も感受し、苦受も感受し、非苦非楽受も感受します。
比丘たちよ、聞をそなえた聖なる弟子は、楽受も感受し、苦受も感受し、非苦非楽受も感受します。
比丘たちよ、そこにおける、聞をそなえていない凡夫と、聞をそなえた聖なる弟子との相異は何でしょうか。特異は何でしょうか。差異は何でしょうか」と。

 聞をそなえていない凡夫

「比丘たちよ、聞をそなえていない凡夫は、苦受に触れられると、悲しみ、疲れ、悲泣し、胸を打って泣き、迷乱します。かれは二の受を感受します。身に属するものと、心に属するものです。
比丘たちよ、たとえば、男性を矢が射抜くとします。ただちに第二の矢が付随の傷を射抜きます。比丘たちよ、このようにして、その男性は二の矢によって受を感受します。
比丘たちよ、ちょうどそのように、聞をそなえていない凡夫は、苦受に触れられると、悲しみ、疲れ、悲泣し、胸を打って泣き、迷乱します。かれは二の受を感受します。身に属するものと、心に属するものです。しかもまた、その苦受に触れられると、瞋を懐く者になります。ただちに苦受によって瞋を懐くかれには、苦受による瞋の潜在煩悩が潜在します。かれは苦受に触れられると、欲楽を歓喜します。(それはなぜか。)

 聞をそなえた聖なる弟子

しかし、比丘たちよ、聞をそなえた聖なる弟子は、身の苦受に触れられても、悲しまず、疲れず、悲泣せず、胸を打って泣かず、迷乱しません。かれは一の受を感受します。身に属するものであり、心に属するものではありません。
比丘たちよ、たとえば、男性を矢が射抜くとします。ただちに第二の矢が付随の傷を射抜きません。比丘たちよ、このようにして、その男性は一の矢によって受を感受します。
比丘たちよ、ちょうどそのように、聞をそなえた聖なる弟子は、身の苦受に触れられても、悲しまず、疲れず、悲泣せず、胸を打って泣かず、迷乱しません。かれは一の受を感受します。身に属するものであり、心に属するものではありません。しかもまた、その苦受に触れられても、瞋を懐く者になりません。ただちに苦受によって瞋を懐かないかれには、苦受による瞋の潜在煩悩が潜在しません。かれは苦受に触れられても、欲楽を歓喜しません。(それはなぜか。)

*2 この実験では、瞑想熟練者と初心者が、MRIの中で瞑想を実施しながら、不快な写真(ヘビ、ゴキブリ、死体など)を見たときの脳活動が調べられた。ターゲットとなった脳領域は、情動に関わる偏桃体と、過去や未来について考えることに関わる内側前頭前野であった。瞑想熟練者では、偏桃体は、瞑想していない時もしている時も同じくらい活動したが、内側前頭前野は、瞑想している時のほうが活動が低下しており、瞑想初心者のそれとは明らかに違っていた。これは、不快な画像を見ると、第一の矢である情動は生じるが、そこから第二の矢である反芻は生じなかった可能性があることを示唆している。

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