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「日本の叡智とマインドフルネス」熊野宏昭×鎌田東二 Zen 2.0レポート(6)

熊野宏昭先生・鎌田東二先生
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松のことは、松に聞け

「松の事は松に習へ 竹の事は竹に習へ(中略)習へと云は、物に入てその微の顕て情感(かんずる)や、句となる所也」(服部土芳『三冊子』1702年刊)

ここに、完全に口利きとなった姿があります。松のことは松に利かなければならない。竹のことは竹に利かなければなりません。

こうして鎌田先生は、日ごろから愛用する竹製の横笛の作者が、竹との対話(利口)を通して楽器を制作するエピソードや、ご自身が、アイルランド・イニシア島の海岸で、或る石と出会い、その石が発する言葉を利いて石笛にした、という〈口利き〉の思い出を語りながら一曲演奏を披露して下さいました。

「竹のことは竹に」の思いを込めて……。

日本マインドフルネスの原点の発見

完全受動態になる、完全な利口になるためには、「素直に従う」という態度が必要です。なるべく自分を消す。しかしそれが無理やりになると、また邪念が入り、制限ができてくる。
『古今和歌集』(延喜5年/905年)紀貫之の「仮名序」に、日本のマインドフルネスの原点を、一つの歌の哲学として見事に指し示した言葉があります。(*1)

「~生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける(歌を詠わない〈もの〉が何処にあろうか)。(かれらに詠われた歌は)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ(る程の力を持つのだ)~」

「あらゆるものが、言葉を発し歌を詠っている。その歌は、力をも入れずして天地を動かしているのだ」。そしてその歌には、鬼神すら「あはれ」の心を起こし安心の世界をもたらすものなのだ、と言うのです。

「マインドフルネスは、天地を動かすことなのです」と明言する鎌田先生。これは、自分でコントロールするという意味ではなく、天地万物の「気」、ちからに一体化しながら融け込んでゆくことなのだ、とも。ここでいう「力をも入れずして天地を動かす」状態が、「完全受動態」といってよいでしょう。あらゆるものを安心させて安らがせることが出来るちからです。

*1 「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士(ものゝふ)の心をもなぐさむは、歌なり」(佐伯海友校注、岩波文庫)

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