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「日常社会で広がるマインドフルネス」プラユキ・ナラテボー × 山口 伊久子 Zen 2.0レポート(7)

プラユキ・ナラテボー師・山口伊久子さん
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「日常社会で広がるマインドフルネス」

プラユキ・ナラテボー × 山口 伊久子

司会:打ち合わせをした中で、お互いに普段、違うフィールドにいらっしゃるので、聞いてみたいことがあるというお話になりました。伊久子さんからプラユキさんに、いかがでしょうか?

伊久子:プラユキさんの活動に、私も参加させていただいたことがあります。個人面談、カウンセリングやご著書の中で、たとえばキリスト教ではみんなで手助けして、悩み苦しむ人を助けていくけれど、仏教では、その人自身がどうするかを重視すると仰られていたのを拝見しました。

ともすると、私たち日本人の中には、仏教に対して、教え諭すみたいなイメージを抱いている方もいらっしゃるのではないかと思います。プラユキさんの活動は、カウンセラーが行なう「ご本人の力で答えを導き出すサポート役である」という部分が似ている、と思いました。どのようなお考えで個人面談をされているのか、そのあたりを伺いたいと思います。

プラユキ:はい。私の場合、出家前にいろいろ悩み苦しみを感じてにっちもさっちもいかなかったときに、縁があってタイのスカトー寺というコミュニティーに入ったわけですが、戒律を遵守した規則正しい生活をしながら、先輩あるいは師匠からご指導をいただいて仏道を歩むうちに、身体と心が本当に短期間で楽になっていきました。

当時、身体的には慢性的な神経痛の症状に悩まされ、不快で辛かった。それがお寺で生活しているうちに、痛みも消えてとても健康で元気になった。また、瞑想を実践していくうちに心もどんどん楽になっていった。お寺という環境、そして共に学ぶ仲間や師匠といった人間環境が、すごく役に立った。「善き仲間」と「優れた教え」、「正しい実践」の相乗効果で本当にこうやって心も身体も楽になっていけるんだっていうことを実感し、確信できたわけです。

その後、日本で悩みを抱えカウンセリングを受けたり、心の病で精神科に通って薬を飲んだりしたが改善しないといった人たちが私のお寺にやって来るようになりました。それで話を聞いてあげたり、瞑想指導をしたりしていくと、どんどん回復して元気になっていった。そのうちに日本にも招かれるようになって、瞑想会や個人面談をするという機会も増えました。

結局、私の場合、自分自身だけの幸せじゃなくて、やっぱり共に幸せになっていくというあり方が一番しっくりとくる感じがします。自己中心にも自己犠牲にもならずに、共に幸せになっていくというのが最も喜びを感じられるのです。

また、仏教では智慧を重んじますが、ただ自己を内省してゆくだけでなく、実践的に、ちゃんと人とコミットしながら人間関係の中でお互いに苦しみから解放されていく。それによって、自己を見つめているだけでは得られない生きた智慧が得られると思うのです。

それゆえに、私の個人面談における「自他の抜苦与楽」とは、悩みを抱えて相談に来られた方、悩みの種になっている相手、そして悩みを打ち明けられた私自身、三位一体となってブッダの教えと実践によって苦しみを軽減して幸せになっていくということを意味します。私自身も苦しんでいる人の話を聞けば苦しみを感じます。ところで、例えば親との関係で苦しみを抱えていた人が私と対話することで心安らぎ、問題解決の展望と勇気を得られる。さらに、お伝えしたブッダの教えを家に持ち帰られて実践し、親との関係が改善される。それを笑顔で報告して来られるということもよくあり、それによって私自身の苦しみも解消して共に喜び合える。この喜びが私の個人面談の原動力になっていると言えますね。

伊久子:ありがとうございました。
プラユキさんが繰り返しお話された、「共に」ということが個人面談ではなによりも重要なのだと思います。私たちは、ともするとこのことを忘れがちになりますね。

司会:いかがですか? 仏教やキリスト教にはそれぞれの考え方や教義がありますが、どんな風に個人面談に仏教を取り入れてらっしゃるかという、そこをもう一歩踏み込んで、どうですかプラユキさん。

プラユキ:そうですね。仏教では、自分自身で、いわば自力で苦しみを脱していくことを重視します。特に初期仏教ではそのあたり顕著で、キリスト教のように神を頼ったりはしません。あくまでも「自らを拠り所にせよ」です。しかし同時に、キリスト教に「隣人を愛せ」という教えがありますが、仏教でも「善き友に交われ」という教えがあり、他人が「苦」を直接取り除いてくれたりはしないが、人との縁が「苦」を取り除くきっかけや助けになるとして、他者と善き関わりを持つことを推奨し、それを「慈悲」と呼んでいるわけです。

私は個人面談を「慈悲」の実践に位置付けています。その際に心がけているのは、仏教でいう『対機説法』です。すなわち、一人ひとりの「根・性・欲」、すなわち、機根や性質、欲に合わせてオーダーメイドでアドヴァイスをしていきます。「機根(きこん)」とは、どのくらいの理解する能力や実践する度量があるかということです。「性質」は、感情的なタイプか思考的なタイプか、優しいか厳しいかなど。そして「欲」というのはその人なりの願い。人それぞれ異なった機根、性質、願いを持っています。そういったものをちゃんとお話しを交わしながら理解した上で、臨機応変にアドヴァイスをしていきます。

伊久子:お話を聞いていて、ふたつのことを思いました。
一つは、大きく仏教と言っても、やはり伝える人の影響は大きいと思います。プラユキさんのバックボーンとして仏教の教えがあるわけですが、「仏教の」「キリスト教の」という前に、「プラユキさんの」教える、伝えるということをなによりも大切になるということです。

とかく私たちは、形式的なラベルを貼りたくなりますが、たとえば私で言えば「マインドフルネス認知療法の」という感じです。受取る側も今はともすると、今この時に何を受け取っているかということよりも、どのラベルから学んでいるかを重要視ししたくなります。

まずは、伝える人自身がどうであるか、どのようなことを伝えたいか、その人なりの“何か”それが一番大切だと思います。

そして、もう一つは、同じことですが、参加されている方もただ指導者から知識を学ぶとか、教えに近づこうとすることよりも、ご自身の体験の中に学びそのものがあり、気づきを見つけていくことの方がより深い力に繋がっていくと思っています。特に、瞑想やマインドフルネスでは、他者から知識を学ぶことよりも、自らの体験から得る気づきが重要だということを、私自身の体験からも学びました。

プラユキ:伊久子さんのご意見にとても共感いたします。おっしゃるように、「仏教ではこうです」とか、「マインドフルネス認知療法では…」といったような切り口で伝えてしまうと、何かマニュアル的な教えや技法の提供みたいなハートのこもらないものになって、相手の心に響かず、生き生きとした心の変容も生じにくい気がします。

私自身、ブッダの教えを人々にいかに正確に伝えるかということよりも、いま目の前にいる人の苦しみをいかに軽減するかということに関心があり、そのための方便としてブッダの教えを活用させてもらっている、という感じです。もちろん仏教はとても優れた苦の軽減のための方法論を確立していますが、心理学や精神医学分野でもいろんな工夫が、最近、現れてきているので、そうした知見も活用していければと思っています。

また、一人でも多くの人たちに気づきの瞑想や伊久子さんが先ほど指導されたマインドフルネスワークのようなものを実践していただき、いつもは見落としがちな感覚をご自分で味わってもらって、心の豊かな世界を実感していただく。瞑想やマインドフルネスが机上の空論でもなく、怪しいものでもなく、今ここのライブで心を、そして日常生活をより良く変容させていくことができるのだという理解が広まっていくといいですね。

そして悩み苦しんでいた人が、苦しみから解放されていき、周りの人たちや社会にもよき影響を広げていく、そうした慈悲の連鎖が次々と繋がっていく。私自身、そういった起点になっていければと思っています。

伊久子:そうですね。今回のタイトルにもあるように、瞑想やマインドフルネスが、今、日常社会に広がりをみせています。その為に、人それぞれ、オーダーメイドでいい部分と、そのことがうまく理解をされず、いわゆる「瞑想難民」につながる心配な部分があるのではないでしょうか。

プラユキ:山口さんの実践会にはどんな人たちが参加されているんですか? 「瞑想難民」的な人っていらっしゃられるんですか?

伊久子:私の実践会には、マインドフルネス瞑想を一度体験してみたいという方。日常的に習慣化する為に継続的に通われている方、そして知識を学びに来ている方がいらっしゃいます。

まず、「瞑想難民」と言っても、いろいろな難民があると思いますが、ひとつには、「瞑想」とか「マインドフルネス」に対して、ご自身なりにこういうものだという、ひとつのイメージを持たれている方がいらっしゃるように思います。本やネットで読んだり友人からの聞いたことだけでマインドフルネスをとらえて、「今、ここ」であったり「集中力をアップする」するものだと思われていたりする場合があります。

メディアや書籍の一部では、「すぐに、集中力アップする効果がある」などと短絡的な紹介のされ方もしています。瞑想やマインドフルネスにも沢山の種類やアプローチの方法があることや実践、体験の中で様々なことを身に付け学んでいく、もっと豊かなものだということを知ってもらいたいですね。

それは一瞬でわかりにくい為に、わかりやすい結果をすぐに求めてしまいます。特に、マインドフルネスはここ数年でひろがったところがありますので、「どの実践方法もありなんだ」と知った上で、「自分はどのような実践方法を学びたいか」「どの実践方法が自分にはあっているのか」を考え上で、実践法を選択することが今後、学んでいかれる方には必要だと思います。

そして、これは私自身にも言えることですが、効果ばかりに意識が行き過ぎると効果の囚われに繋がります。マインドフルネスや瞑想は知識を学ぶものだけではなく、体験の中で生まれるご自身なりの気づきが大きな力になることを知ってもらう。今後は、このことをきちんと伝える努力をしていきたいと思っています。まずは淡々とこころのトレーニングだと思って続けることから始めてもらえれば、本当の意味で日常社会に根付いていくように思います。

対談終了後、会場からの質問にお答えされるプラユキ・ナラテボー師と山口伊久子さん。

(終わり)

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