相次ぐ迫害は行者の証
小湊誕生寺の日蓮聖人御幼像。清澄寺に登る当時の姿と伝わる(写真提供・公益社団法人 千葉県観光物産協会)
そのころ関東を中心に地震や旱魃、長雨などの未曾有の天変地異が頻発し、飢饉や疫病が続きました。
日蓮は、その原因を明らかにし、災害を除く道を示して、天下に警告すべきだと考えました。
「災害の原因は、真実の教えである法華経を投げ打って、念仏・禅・律・真言などの邪宗が盛んになっているからだ。人心の迷いに乗じて悪鬼が災いを起こし、諸天や善神が日本を見すて去った。
国土と民衆を救うには、国王以下もろもろの人が正法である法華信仰に帰さねばならない。さもなければ災害はやむどころか、国内に大乱が生じ、外国の侵入を受けることになろう」
この考えは『立正安国論』にまとめられ、前執権の北条時頼に献上されたのです。しかし北条時頼は、これを黙殺したのですが、おさまらないのが、鎌倉の念仏者たちです。
「日蓮憎し」とばかりに彼の信徒を迫害したばかりか、松葉ヶ谷の草庵を襲って日蓮を殺害しようとしたのです。
このときは、かろうじて難を逃れたものの、翌年の弘長(こうちょう)元年(1261)に、
「日蓮の悪口のかぎりは、流罪に当たる」
と、悪口を罰するという『貞永式目』を楯に取った念仏者の訴えで、伊豆の伊東に流されたのです。
伊豆にいること3年、許された日蓮は、文永(ぶんえい)元年(1264)、不吉とされた大彗星が2カ月あまりも現われた年、11年ぶりに故郷の小湊に帰りました。
しかし、そこで待ち受けていたのは、地頭の東条景信たちの凶刃でした。7、8人の弟子と東条の小松原を通ったとき、待ち伏せしていた東条景信らが襲いかかったのです。弟子たちは必死に防戦しますが、多勢に無勢で、二人が殺され、日蓮も頭に深手を受けたのでした。
こうした度重なる迫害で、日蓮は、
「末法の世の中の法華経者は、迫害にさらされると経文にある。日蓮の打ち続く法難は、経文に符合するものである。それ故、日蓮こそが日本第一の法華経の行者である」
という確信を持つにいたったのです。
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