佐渡で三大誓願
佐渡流罪赦免となり、日蓮が着岸した柏崎の海岸
文永5年、蒙古から、「隷属しなければ、武力で征圧する」という国書がもたらされます。日蓮は、これを『立正安国論』で述べた予言が的中したとして、幕府に意見書を出しました。
「この国難を退治できる者は、比叡山を除いては、日本国に日蓮ただ一人である。だが、謗法者に祈請させれば、仏神は怒り、国土を破壊に導く」
しかし、意見書が無視されると、幕府と諸大寺に書状を送って、公の座で正邪を決めようと申し入れたのです。だが、幕府は黙殺し、諸大寺の僧たちは日蓮に憎悪の念をたぎらせて、折りあらば日蓮を抹殺しようと考えたのです。
2度目の国書が蒙古からきた翌年、春から旱魃が続き、夏になっても雨雲もなかったので、幕府は鎌倉の極楽寺の忍性(にんしょう)に祈雨を命じました。
日蓮はこれに挑戦して、忍性を打ち破ったのです。怒った忍性は、光明寺の良忠(りょうちゅう)らと語らって、日蓮を告訴しました。
「仏教の八万四千の教えは、一つだけ正しいとし、他のすべてを誤りとするものではない。
しかるに日蓮は、法華経だけに固執して、念仏は無間の業、真言は亡国、禅は天魔、律は世間を惑わす国賊と誹謗している。
また阿弥陀像や観音像などを火に投じ、水に流してしまえといっている。しかも草庵には武器を蓄え、兇徒を集めている」
ついに日蓮は捕らえられて、佐渡に流罪となったのです。日蓮は、佐渡の地頭である本間重連の相模(神奈川県)依智にある屋敷に送られ、そこから護送されることになっていました。
その途中、七里ヶ浜から竜ノ口にきたとき、馬から下ろされて地面に座らされたのです。あとを追いかけてきた四条金吾が、もはや最期かと大声で泣くと、
「気をしっかりと持て。首を斬られることは法華経行者の真のあかし。悦び笑うべきであるぞ」
と諭したといいます。そのとき、天空から光の玉が流星のように走り、それを見た役人は恐れをなして、斬首を取りやめたといわれています。
この流罪のとき、日蓮の弟子や信徒も弾圧され、
「千人のうち、九百九十九人が転宗した」
と、後年になって日蓮は語っています。
3年に及ぶ佐渡の生活も、日蓮に厳しい試練を課しました。新穂の塚原三昧堂という、死人を捨てる所に入れられたのです。佐渡の念仏者や律僧たちは、日蓮を目の仇にし、近づく者をとがめました。
日蓮は、寒気と飢えに悩まされますが、日蓮の教えによって、新しく信者になった島民の中には、監視の目を盗んで衣食を運んでくる人も現われたのです。
この間、日蓮は自分の信仰を明らかにする著作に専念します。『開目抄』や『観心本尊抄』が書かれたのも、こうした厳しい逆境の中でした。
「我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん」
この三大誓願を発して、末法の衆生を導くという不退転の決意を固めたのでした。佐渡流罪は、日蓮の信仰をより深く、逞しくしたのです。
その後、日蓮は承久の乱で佐渡に流された順徳天皇の御所の奥にある一ノ谷に移されたのですが、そのころには身命を惜しまない信者が多く生まれていたのでした。
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