日本仏教を形づくった僧侶たち

「日蓮」―迫害の中で『法華経』信仰を深めた不屈な行者―

作家 武田鏡村
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身延山で弟子を養成

久遠寺山門

身延山久遠寺山門(写真提供・やまなし観光推進機構)

文永11年(1274)、日蓮は赦免されて、鎌倉に召還されます。蒙古から最後通牒が送られて、来襲が避けられない情勢でした。
日蓮を流罪にした役人が手のひらを返したように辞を低くして、蒙古来襲の時期と対策を尋ねてきました。

「今年中には必ず攻めて来るであろうが、これに立向かえる者はいない。これは天の戒めと責めである。この日蓮が説いたことを用いなかったからである。
いま一度『立正安国論』に従って、国王も民衆も法華経を奉じなければ、この国難は避けられぬ」

日蓮の終始一貫した主張は、やはり幕府の容れるところとはならなかったのです。
「三たび国を諌めても用いられずば、国を去るべし」
と、同年5月、鎌倉を去った日蓮は、甲斐(山梨県)の身延山へ向かったのです。信者の波木井実長(さねなが)の招きでしたが、身延山に入ったのは、おそらく日本国中が蒙古に蹂躙されることを予想したからでしょう。

日蓮の予言どおり、10月に蒙古の大軍が北九州を襲いました。文永の元寇です。三万余の軍兵と九百余艘の軍船が博多に迫りましたが、九州の御家人の防戦と夜半の突然の暴風雨のために二百余艘が海中に沈み、蒙古軍は侵攻を断念して引き上げたのでした。

身延山での生活は、厳しいものがありました。
わずかな平地に小さな草庵を建てますが、深山であるため日中も陽が射さず、湿気のため4年目には柱が朽ち、壁は落ちてしまったが、修理もできないという有り様でした。

また食糧にもことを欠き、とくに塩は大変不足していたようで、塩味のない竹の子や椎茸は、土の味のようだといっています。
「衣も薄く、寒さも防ぎがたし。食絶えて命すでに終わりなんとす」
とも述べています。鎌倉の信者などから時折り米や麦、芋などの食糧や衣服、銭などが届けられましたが、十分とはいえなかったのです。
久遠寺

身延山久遠寺(写真提供・やまなし観光推進機構)

佐渡への流罪でも困窮な生活を乗りこえた日蓮ですが、身延山での数年間の生活で、すっかり体をこわしたのです。50歳を越えた体の衰えが、それに拍車をかけたのでしょう。
しかし、日蓮はそんな環境にも負けずに、遺文といわれる文章の大半をここで書きながら、宗風の宣揚と弟子や信者の養成に尽力したのです。

弘安(こうあん)4年(1281)、2度目の元寇を再び暴風で防いだ年の暮れころから、病が重くなりました。
翌年九月、湯治治療のために身延山を出て、武蔵(東京都)の池上宗仲の屋敷にたどり着いた日蓮は、再び立つことができませんでした。

10月13日、池上邸で61歳の波瀾に満ちた生涯を閉じたのです。その地には、池上本門寺が建立されています。
また日蓮が住んだ身延山の草庵の傍らには、波木井実長によって堂宇が造営され、久遠寺と名づけられて、日蓮宗の総本山になっています。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
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