日本仏教を形づくった僧侶たち

「慈円」―歴史に流れる「道理」を説いた天台僧―

作家 武田鏡村
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天台座主に4度就任

無動寺参道入り口(写真提供・PIXTA)

ついに比叡山延暦寺という器を手にすることができました。後白河法皇が亡くなり、源頼朝が念願の征夷大将軍に任じられた建久(けんきゅう)3年(1192)、慈円は38歳という若さで、天台座主という延暦寺の最高位に任命されたのです。

その背景には、兄の兼実と頼朝の力がありました。兼実は、平家を打倒した頼朝に接近することで、ついに摂政の位につくことができました。頼朝が鎌倉幕府の地歩を固めるために、朝廷内に有力な味方を求めたのが九条兼実であったからです。

慈円が天台座主になる2年前、兼実は娘の任子(にんし)を後鳥羽天皇の女御として入内(じゅだい)させていました。このとき慈円は、任子のために入内と皇后に取り立てられることを祈祷しています。そして任子の入内によって、兼実と慈円は兄弟という私的な関係が、公的なものになっていきます。慈円は、これを契機にして後鳥羽天皇と長い親交を結ぶことになるのです。

1回目の天台座主の期間は、5年にもおよび、42歳までその職にありました。その間、衰退していた天台教学を立て直すために、勧学講を開きます。学問の充実こそが、仏法興隆の第一歩であると考えたからです。しかし勧学講を支えるためには、なによりも費用が必要です。最澄の仏法の後継者と自負する慈円は、最澄が説いた、

「道心のなかに衣食あり。衣食のなかに道心なし」

という教えを真理としながらも、

「衣鉢の支え(修行の費用)なくして、だれかよく仏法を学ばんや」

と兼実を通じて頼朝に頼み込んで、平重盛(しげもり)の遺領から年貢千石を勧学講の維持費にあてることに成功したのです。

慈円は、あくまで現実を重視して、その結果の積み重ねが歴史となり、時代を動かす「道理」となると考えます。

しかし、現実に裏切られることもあったのです。一門の栄華を誇っていた九条兼実が、曹洞宗を開く道元の父の源通親(みちちか)によって失脚させられたのです。慈円もまた、天台座主を追われ、勧学講も中止となったのでした。九条家は、冬の時代になったのです。

その後、慈円は天台座主を3度もつとめますが、兼実の庇護を失っていたために、いずれも1年前後で辞めています。慈円は兼実が亡くなったあとも、対立する鎌倉幕府と後鳥羽上皇との友好関係を保ち、そのバランスの上で華やかな歌人活動を行ないます。

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