日本仏教を形づくった僧侶たち

「弘法大師空海」―真言密教を開花させた不屈な仏教者―

作家 武田鏡村
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師・恵果と出会うなかで

延暦23年(804)、31歳の空海は、希望に燃えながら遣唐船に乗り込みました。しかし、たちまち台風に見舞われて、34日間の漂流の末に、中国の南の福州長渓県にたどり着きました。

別の船には最澄が乗っていましたが、やはり波濤に翻弄されて明州に着いています。

福州に着いた空海ら120人は、密航者として捕らえられました。

女人道から見た根本大塔 (写真提供・公益社団法人和歌山県観光連盟)

女人道から見た根本大塔 (写真提供・公益社団法人和歌山県観光連盟)

「日本国の大使である」
と遣唐大使の葛野麻呂(かどのまろ)が訴えても、州の役人は取り合わない。そこで空海が筆をとりました。その筆には120人の命がかかっています。

「高山膽黙(たんぼく)なれども、禽獣(きんじゅう)労を告げずして投(いた)り帰(おもぶ)く……」
と、始まる文章は、入唐の目的を格調高くうたいあげました。

唐の著名な文章家でも書けないほどの名文で、しかも達筆です。

驚いた州長官は、非をわびて一行を丁重にもてなしました。

ところが唐の都の長安(西安)に行くことを許された者の中には、空海の名前がありません。長安に行かなければ、目的とする密教の奥義を修得することができません。

そこで空海は、また文章を書きました。今度は一行を救うためではなく、自分自身を救うためにです。

「空海、才能聞こえず、言行取るなし。ただ雪中に肱(ひじ)を枕し、雲峰(うんほう)に菜を喫(くら)うのみを知る。時に人に乏しきに逢うて、留学の末にまじわれり……」

そして、いま新しい仏教を学ばんがために、寸暇をおしんで勉学している。どうか長安に行くことを許してください、と書きました。

再び空海の名文に心を動かされた州の長官は、長安行きを認めたのです。空海は名文と能筆で自分と多くの人の窮地を救ったのでした。

苦難にみちた旅の末に、ようやく長安に着きました。

そして、インド伝来の密教を正式に伝える青龍寺の恵果(けいか)の門を叩きます。

恵果は、空海を一目見るなり、
「わしは前々から、そなたが来ることを知っていた。わしの命は尽きようとしているのに、これまで密教を伝える立派な人物を見出すことができなかった。よくぞ、まいられた」

といって、さっそく入門を許して密教の法を授け、3ヵ月後には密教で最高の位である阿闍梨(あじゃり)位を与えました。空海に非凡な才能があったとはいえ、異例のことです。

そのうえ恵果は、真言の正法をさずけて、空海は大日如来以来、真言を継ぐ第八祖におされたのです。

空海に密教のすべてを伝授した恵果は、
「密教のすべてをそなたに伝えた。早く日本に帰って、万人にこの仏恩を与えよ」

といって、5ヵ月後に生涯を閉じました。20年の留学を覚悟していた空海は、恵果のすすめで、わずか2年余で帰国したのでした。

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