国家の安泰を願って
空海は、帰国後3年間、九州の太宰府や和泉(大阪府)の槙尾山で、密教の体系をつくることに心を砕きました。
京都で布教することができたのは、平城(へいぜい)天皇が退位して、嵯峨天皇が即位してからです。
嵯峨天皇は、空海の密教と、さらには書と漢詩の才能を認めて、高雄山寺(神護寺)を与えたのです。
そこには中国から天台宗を伝えて、故桓武天皇から絶大な信任を受けて、比叡山に延暦寺をつくっていた最澄に対抗させようという思惑もあったようです。
最澄は、これまで奈良の寺院や僧侶を徹底して批判していたことから、目の敵にされていました。そこに空海が登場したことから、奈良の仏教者は、空海を後押ししたのです。
空海が帰国して、すぐには京都に入れなかったのは、故桓武天皇の遺志をくむ平城天皇の意向があったといわれています。
そのため空海は3年間、各地で修行に徹したのですが、その間に山岳修行で得た体験と、恵果から授かった密教教理とを一体化させて発酵させたのでした。
空海が京都に入ることができた直後、薬子(くすこ)の乱が起こりました。
女人堂 (写真提供・公益社団法人和歌山県観光連盟)
平城天皇をもう一度、天皇の位につけようとする藤原薬子と兄の仲成(なかなり)が挙兵を企てたのです。弘仁元年(810)、空海37歳のときです。
薬子らは、坂上田村麻呂の朝廷軍によって制圧されました。このとき空海は、
「密教の修法によって、国家の安泰を祈りたい」
と申し出ました。天皇に背く者を調伏するというものです。
薬子の乱で動揺する朝廷は、その修法を喜んで認めました。これによって空海の存在は、天皇をはじめとして、朝廷内では不動のものとなったのです。
このときの空海の思想には、
「悪人は仏法と国家の大賊なり。大賊は現世には自他の利なく、往生は無間の地獄に入る」
という、旧来の仏教による鎮護国家観に支えられていたのです。
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