密教の第一人者として
最澄が密教を学びたいと、弟子とともに高雄山寺にいる空海を訪ねてきました。最澄は中国にいたのは、わずか8ヵ月で天台宗の第八祖におされましたが、密教の法門を授かっていなかったからです。
訪れた最澄に対して、空海は仏縁を結ぶための結縁潅頂(けちえんかんじょう)を行ないました。最澄が空海のもとで潅頂を受けたことは、空海が密教の第一人者であることを示すことになります。
空海は、最澄に対して、
「今後の日本の仏教を語る資格がある人は、私とあなたと、それに室生寺の修円(しゅうえん)の3人だけです」
と自信にみちた手紙を送っています。
修円は、のちに女性が参拝できることから「女人高野」と呼ばれる室生寺をつくった人物です。
その後も最澄との交友は続き、求められるままに経典を貸し与えています。空海は、だれとでも交友する寛容な人柄でした。
ところが、最澄の1番弟子の泰範(たいはん)が、空海の弟子になったことから、2人の間はしだいに険悪になっていきます。そして、ついに、
「あなたは真言と天台法華とは優劣なしといわれるが、真言密教こそが最も優れているのですぞ」
と明言して絶交したのでした。包容力のある空海でしたが、最後の一戦では自分の信念を貫いたのでした。
金剛峯寺 (写真提供・公益社団法人和歌山県観光連盟)
弘仁7年(816)、嵯峨天皇は高野山を空海に与えました。高野山の金剛峰寺は真言宗の根本霊場として栄えることになります。
その7年後には、京都の玄関口ともいえる地に教王護国寺(東寺)が与えられています。
その間、空海は故郷の讃岐にある満濃(まんのう)池の修理にあたっています。
大水で堤防が押し流された満濃池の修理は、3年かかってもなかなか進まなかったのです。
そこで讃岐の国司は、即身成仏の法を会得した人物として、民衆の絶大な信望を集めていた空海に頼んだのです。
「都から空海さまがやってくる」
という報せに、労力の提供を拒んでいた農民たちが続々と集まり、さしもの難工事もわずか2ヵ月余で完成したのでした。
だれからも親しまれ、慕われる空海の性格は、他の教団と対立することなく、いつの間にか相手を自分の立場に同化させるという才能とあいまって、真言密教を花咲かせました。そして、全国各地に「弘法大師伝説」を残したのでした。
その没年は、承和2年(835)、62歳でした。
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