日本仏教を形づくった僧侶たち

「源信」―『往生要集』で地獄と極楽を表わした僧―

作家 武田鏡村
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名声求めず浄土教を習学

源信は、大和(奈良県)の当麻で、天慶(てんよう)5年(942)に生まれています。
関東で起こった平将門の乱や、西海で決起した藤原純友の乱から数年後のころです。

源信の母親は、子どもがさずかるようにと、近くにある高尾寺の観音に必死に祈願したといいます。母の愛情をうけて育った源信は、母のすすめで15歳のときに比叡山に上っています。
源信は、天台宗の中興の祖といわれる良源(りょうげん)(元三大師)のもとで修学にはげみます。良源は十八代の天台座主に補されると、火災で失った堂塔をつぎつぎに再建して、大僧正に任じられていました。

あるとき、源信は公卿の法要に招かれて、たくさんのお布施をもらいました。源信は母親を喜ばせたいと思って、お布施を送りました。
すると母親は喜ぶどころか、源信をたしなめる手紙を送ってきたのです。
「お前は、私の後世をとむらってくれると楽しみにしていたのに、現世のお布施に喜んでいるようでは、情けありません。そのような心がまえのままであったら、私は浮かばれません」
源信は、母親の手紙に強い衝撃をうけました。

それ以来というもの、現世にはとらわれず、名声や地位を求めることはせずに、ひたすら浄土教を修学し、それをもっと充実させるために横川(よかわ)に隠棲したのでした。横川は、比叡山の三塔といわれる東塔と西塔とならぶ修行場になっています。

舞台造りの横川中堂(写真提供・比叡山延暦寺)

もっとも源信は、母親の言葉に心が打たれる純粋な心の持ち主であったようです。比叡山は、世俗に劣らない名声や利得を求める「名利(みょうり)」にまみれていました。修行を出世の手段と考える僧や、武装して力を誇示する僧兵が起こす争乱からは遠く離れたいと願ったのです。

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