日本仏教を形づくった僧侶たち

「源信」―『往生要集』で地獄と極楽を表わした僧―

作家 武田鏡村
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師・良源と母の死を経て

源信の旧跡・恵心堂。この堂において『往生要集』などを著した(写真提供・比叡山延暦寺)

横川に隠棲した源信は、ますます修学にはげみ、その学識と徳行は、注目をあびるようになっていきます。しかし名声が高まるにつれて、かえって世俗から離れる思いが強くなっていったのでした。
そして、源信の関心は、人間の業で汚れた「この世」ではなく、
「死んだのちに、いかにしたら極楽往生できるか」
という「あの世」に向けられていったのです。

源信の思いを決定づけたのは、師の良源と母親の死でした。あの慈愛に満ちて指導してくれた良源や、心から自分を愛し育ててくれた母の命さえも、露のようにはかなく失われてしまう。
源信は、この世のありとあらゆるものに無常を観じ、永遠の世界を求める決意をさらに固めたのでした。

源信が生きた時代は、まさに末法の世に突入しようとしていました。末法は、釈尊の没後二千年(異説があります。以下同じ)ののちに到来するものと信じられていました。
まず、釈尊の入滅後の千年は正法(しょうぼう)といわれて、教(教説)・行(修行)・証(悟り)の三つが、すべてそなわって、仏教はあまねく展開して浸透する時代です。

つぎの像法の千年は、教と行はあるが、悟りを得るものがなくなった時代です。
それにつづく末法は、教えだけしか残らず、人々は仏恩から見放されて、無明の闇のなかで苦しみつづける時代であるといわれていました。
この末法の時代は、日本では永承7年(1052)に入ったとされています(異説あり)。源信が『往生要集』を書いたのが、末法到来の67年前のことですが、すでに末法になっても救われたいとする人々の切実な願いがあったのです。それに源信はこたえます。

源信は、地獄と極楽を対比させることで、地獄をいとい、極楽を求めるために、阿弥陀仏を念じることによって、その仏恩によって極楽浄土に生まれ変われるとする、浄土信仰をすすめました。それが日本浄土教の原点となる『往生要集』です。
千年という長い時間と空間をこえて、白隠や太宰治をはじめ日本人の深層意識にぬきさしならない影響を与えたのは、この源信に源があったのです。

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