日本仏教を形づくった僧侶たち

「源信」―『往生要集』で地獄と極楽を表わした僧―

作家 武田鏡村
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法然や親鸞につながる教え

「地獄・六道のなかで、人間や天までも厭離するのは、いかなる理由ですか」
と、寂心(じゃくしん)と名のって出家した慶慈保胤(よししげのやすたね)が、源信にたずねたことがありました。慶慈は念仏聖の空也(くうや)とも親交があった人で、『日本往生極楽記』を著わしています。

「人界や天界といえども、いずれも迷いの世界、無常の世界です。あなたも知っている大江定基も、それを実感した人です」
大江定基は、文章博士で三河守になった人です。本妻のほかに若い女を愛して、本妻と離別しました。定基は、若い女と任地に赴きますが、女は病で亡くなりました。定基は、悲しみにたえきれず、埋葬せずに数日間も死骸を抱いて寝ました。ある日、いとおしい女の口を吸おうとすると、えもいえぬ死臭が漂ってきます。さすがの定基も、女をうとむ気持ちになって、泣くなく葬ったのでした。

無常を観じた定基は、これを機縁に出家して寂昭(じゃくしょう)と名のり、源信や寂心に師事したのでした。その後、中国宋に渡って『往生要集』を紹介しています。その書と源信の名前は、中国でも評判となり、「日本小釈迦源信如来」とたたえられたといいます。
「心の中に阿弥陀仏を思い、ひたすら念仏せよ。さすれば、いかなる人も地獄・六道をはなれて、極楽浄土の道が開かれん」
と源信は説きつづけたのです。

ところで源信は、あれほど求めた極楽に行くことができたのでしょうか。臨終が近いことを知った源信は、身のまわりを整理し、身体をきれいにして、阿弥陀仏像の手に結びつけた五色の糸を自分の手に握りながら念仏しました。
弟子たちが様子を見に行くと、微笑をうかべて、すでに亡くなっていたといいます。寛仁(かんじん)元年(1017)6月、76歳でした。

源信は、つねづね弟子たちに対して、
「私の臨終のときに、人間のもっとも大事なことについて聞きなさい。善が生じ、悪がおこる訳を如実に示そう」
といっていましたが、弟子たちは聞き逃しました。しかし弟子たちは、源信は極楽にいくことができたと信じたといいます。
源信の地獄・極楽の浄土信仰は、念仏の信心の教えとともに、法然や親鸞の信仰形成に深く影響していくことになります。

作家
武田 鏡村(たけだ きょうそん)
1947年、新潟県生まれ。作家、日本歴史宗教研究所所長。主な著書に『良寛 悟りの道』(国書刊行会)『一休』(新人物往来社)『「禅」の問答集』(河出書房新社)『名禅百話』(以上、PHP文庫)『親鸞 100話』(立風書房)『親鸞』(三一書房)『般若心経』(日本文芸社)『清々しい日本人』『図解 五輪書』『決定版 親鸞』(以上、東洋経済新報社)ほか多数。
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