日本仏教を形づくった僧侶たち

「木食応其」―高野山を滅亡の危機から救った僧―

作家 武田鏡村
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交渉の達人

高野山・根本大塔を望む

応其は、学侶と行人の代表者とともに秀吉に面会します。
すでに応其は、同じ近江出身で秀吉の側近になっていた石田三成とも面識があったようです。

一説によれば、応其は紀州平定の前に秀吉の使者となって根来寺に派遣されて、降伏するように説得していたといいます。
それが実らなかったのでしょう。根来寺が焼却されたことを知った応其は、武力で立ち向かうことはできない、と判断したと思います。

秀吉に対して高野山は、先に秀吉があげた三つの条件をのんで、全山をあげて降伏することを誓ったのです。
応其が誠意をもって秀吉との交渉にあたったことは、降伏する起請文をもって再び訪れた使者に対して、秀吉が、
「木食が高野山を救ったのだ。高野山の木食ではなく、木食の高野山であると心得よ」
といったことでも明らかです。

さらに秀吉は応其の嘆願にこたえて、没収するといった高野山の寺領を安堵しています。
その後、応其は秀吉の信任を背景にして、学侶と行人の両方を統轄し、高野山の金堂をはじめ数多くの堂宇を造っています。
さらに道路や橋、用水などを整備して、奈良時代に社会事業を行なった行基(ぎょうき)の再来ともたたえられています。

秀吉は、応其の人柄と交渉力にほれ込んだのでしょう。九州平定のさいには、茶人の千利休らとともに応其を同行させて、薩摩(鹿児島県)の島津義久に対する降伏勧告に従事させています。
また応其は、相模(神奈川県)の小田原平定のときに秀吉の陣中を見舞っており、朝鮮出兵では勝利祈願を行なっています。

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